※本稿は2026年3月時点の法令・制度に基づく一般的な情報提供であり、個別の法的助言を構成するものではない。具体的な対応にあたっては専門家への相談を推奨する。

はじめに

ベトナムに進出して自社ブランドの製品を販売しようとしたら、すでに現地の第三者が同じブランド名で商標登録を済ませていた──これは、日系企業がベトナムで実際に直面するトラブルの一つだ。

ベトナムの知的財産制度は先願主義(first-to-file)に基づく。日本で何十年も使っている商標であっても、ベトナムで先に出願した者が権利を取得する。日本での商標登録はベトナムでは効力を持たない。

さらに、ベトナムでは営業秘密の刑事保護が不十分であり、製造ノウハウの流出リスクに対しては契約(NDA)による防御が不可欠だ。一方で、2025年末に可決された知的財産法の改正(2026年4月施行)により、審査期間の大幅短縮やエンフォースメントの強化が実現する見込みであり、知的財産保護の環境は着実に改善している。

第1章 先願主義の恐怖 ── 「使っていた」は通用しない

先に出願した者が勝つ

日本もベトナムも先願主義だが、ベトナムでは商標スクワッティング(悪意の先取り出願)がより深刻な問題となっている。

ある日系企業がベトナム市場に参入しようとしたとき、すでに現地の個人がその企業のブランド名を商標登録していた。日本で長年使用してきた実績があっても、ベトナムで先に出願されていれば、原則としてそちらが優先される。商標を取り戻すには異議申立や無効審判が必要となり、時間と費用がかかる。

教訓は明確だ。ベトナムでの事業計画が具体化した時点で、現地法人設立を待たずに商標出願を開始すべきである。

日本の登録はベトナムでは無効

「日本で商標登録しているから大丈夫」は完全な誤解だ。知的財産権は属地主義であり、日本での登録はベトナム国内で何の効力も持たない。ベトナムでブランドを保護するには、ベトナムで個別に登録する必要がある。

第2章 商標登録 ── 二つのルート

ルート1:マドリッド・プロトコル経由

マドリッド・プロトコル(マドリッド議定書)は、日本での商標登録を基礎として、WIPO(世界知的所有権機関)を通じて一括でベトナムを含む複数国に出願できる制度だ。

メリット:

  • 一度の手続きで複数国に出願可能
  • 費用効率が高い(個別出願の合計より安い場合が多い)
  • 日本の特許庁を通じて手続きできる

デメリット:

  • 基礎出願への5年間の依存がある。この期間内に日本の基礎出願が取消・消滅すると、ベトナムでの登録も影響を受ける(セントラルアタック)
  • 各国での審査で拒絶される可能性がある

ルート2:ベトナム直接出願

ベトナム知的財産庁(IP Vietnam)に直接出願する方法。外国企業はベトナムの工業所有権代理人を通じて出願する必要がある(自社で直接は不可)。

メリット:

  • 基礎出願に依存しない独立した権利
  • ベトナム国内での管理が直接的
  • ローカル代理人との密接な連携

デメリット:

  • ベトナム1カ国のみの手続き
  • 現行法では審査に9〜12ヶ月かかる(2026年4月以降は5ヶ月に短縮予定)

推奨:ハイブリッド戦略

日本で既に登録されている商標については、マドリッド・プロトコル経由が費用効率的。ただし、特に重要なブランドについては、基礎出願依存のリスクを避けるためにベトナム直接出願も併用するハイブリッド戦略が望ましい。

第3章 特許と実用新案 ── 技術をどう守るか

特許(発明特許)

保護期間は出願日から20年。新規性、進歩性、産業上利用可能性の要件を満たす必要がある。PCT(特許協力条約)経由での出願も可能。

現行法では実体審査に18ヶ月を要するが、2026年4月の改正で12ヶ月に短縮される。

実用新案(Utility Solution)

保護期間は出願日から10年。特許との違いは、進歩性の要件が低い(特許ほどの創造性は求められない)こと。審査プロセスも簡略化されている。

製造業の現場での小さな改良──治具の工夫、搬送方法の改善、部品形状の微調整──こうした「特許にするほどではないが、競合他社に真似されたくない」改良は、実用新案で保護するのが実務的だ。

戦略的な使い分け

  • 画期的な技術革新:特許出願(20年保護)
  • 現場の改良・小改善:実用新案(10年保護、審査が速い)
  • 公開したくない製造ノウハウ:営業秘密として保護(次章参照)

第4章 営業秘密 ── 契約で守るしかない

ベトナムの営業秘密保護の課題

ベトナムの知的財産法は営業秘密の保護を規定しているが、刑事罰が不十分という大きな課題がある。日本の不正競争防止法には営業秘密侵害罪が明確に規定されているが、ベトナムでは営業秘密窃取に特化した刑事規定が十分に整備されていない。

行政罰としてはVND 60,000,000〜80,000,000(約36万〜48万円)の罰金が科されうるが、これは製造ノウハウの価値を考えれば十分な抑止力とは言い難い。

契約による防御の重要性

だからこそ、秘密保持契約(NDA)による重層的な防御が不可欠だ:

  • 従業員との秘密保持契約:雇用契約にNDA条項を含める。退職後の秘密保持義務の範囲と期間を明記
  • 取引先との秘密保持契約:サプライヤー、顧客、コンサルタントとの取引開始前にNDAを締結
  • 社内の秘密管理規程:情報の秘密区分(極秘・社外秘等)、アクセス権限管理、持出し制限の明確化
  • 退職者への対応:競業避止義務の範囲と期間を雇用契約で定める(ただしベトナム法上の有効性の限界に注意)

第5章 エンフォースメント ── 権利を持つだけでは意味がない

行政的エンフォースメントが主力

ベトナムでは、知的財産権侵害に対する行政的エンフォースメント(市場管理局、税関、公安による取締り)が民事訴訟よりも効果的とされている。

  • 市場管理局が模倣品の押収・廃棄を行う
  • 税関が輸入時に模倣品疑義貨物の通関を停止する
  • 罰金:法人最大VND 500,000,000

税関水際措置

商標登録後、税関総局への権利登録を行うことで、税関職員が模倣品疑義貨物を水際で差し止めることが可能になる。輸出入が多い企業にとっては重要な保護手段だ。

2025年改正での刑事罰強化

2026年4月施行の改正では:

  • 模倣品の罰金額が従来の2倍に引き上げ
  • 法人に対する罰金:最大VND 40,000,000,000(約2.4億円)
  • 模倣品の保管行為も新たに侵害行為に追加(倉庫での取締りが可能に)
  • Eコマースプラットフォームに24時間以内の模倣品削除義務

第6章 想定される失敗パターン

パターン1:商標スクワッティング

ベトナム進出を検討している間に、現地の第三者が先に商標登録を済ませてしまう。取り戻すには異議申立や無効審判が必要で、数年と数百万円の費用がかかる。

パターン2:従業員による技術流出

優秀なベトナム人エンジニアが退職して競合他社に移り、製造ノウハウを持ち出す。NDAを締結していなかったため、法的措置が困難。

パターン3:模倣品の放置

自社製品の模倣品が市場に出回っているのを知りながら対応を怠り、ブランド価値が毀損される。行政的エンフォースメントの手続きを知っていれば迅速に対応できたはずだ。

パターン4:税関登録の未実施

商標登録は取得したが、税関への権利登録を行っていなかったため、模倣品の輸入を水際で止められない。

日本との違い ── 「日本の常識が通じない」ポイント

  1. 商標スクワッティングの深刻さ

日本でも先願主義だが、ベトナムではブランドの先取り出願がより組織的に行われている。早期出願が生命線だ。

  1. 外国企業の出願制限

日本では企業が自ら特許庁に出願できるが、ベトナムでは外国企業は必ずベトナムのIP代理人を通じて出願しなければならない。

  1. 営業秘密の刑事保護の不足

日本の不正競争防止法には強力な営業秘密侵害罪があるが、ベトナムでは刑事保護が不十分。契約による保護がより重要。

  1. 行政的エンフォースメントの重要性

日本では知的財産権侵害への対応は民事訴訟が中心だが、ベトナムでは行政機関(市場管理局)による取締りの方が迅速で効果的とされている。

ここが変わった(2025〜2026年)

表:ここが変わった20252026年

まとめ:やっておくべきこと

  1. 商標出願は今すぐ開始する。 会社設立を待つ必要はない。マドリッド・プロトコル経由でベトナムを指定するのが最速

  2. ベトナムの工業所有権代理人(IP代理人)を選定する。 外国企業の出願には必ず現地代理人が必要

  3. 従業員との秘密保持契約(NDA)を雇用契約に含める。 特に技術者・管理職には個別のNDAを締結する

  4. コンベア・ローラーの技術について特許/実用新案の出願を検討する。 小改良は実用新案、画期的な改良は特許で保護

  5. 商標登録完了後、税関総局への権利登録を行う。 模倣品の水際差止を可能にする

  6. 社内の秘密管理規程を策定する。 情報の秘密区分、アクセス権限管理、持出し制限を明確化

  7. 2026年4月の新法施行を見据え、ファストトラック制度の活用を検討する。 審査期間が大幅に短縮される