6月初め、私は地方の公安事務所にいました。一時滞在許可証(TRC)の期限が迫り、それと同時に運転免許証の有効期限も切れるため、書き換え手続きに訪れたのです。

窓口での手続き自体は、スムーズに進みました。書類を提出し、写真を撮り、手数料を支払う。ここまでは完璧でした。しかし、最後に担当者から告げられたのは、予想外の言葉でした。

「では、2ヶ月後にまた来てください」

「え、2ヶ月後ですか?」

「ええ、カードの材料がないので」

あっさりとそう言われ、交付予定日が記載されていない申請の控えだけを渡されて事務所を後にしました。そして2ヶ月近くが経った今、ベトtナム人のスタッフに電話で状況を確認してもらったところ、返ってきた答えは「いつになるか、まだ分かりません」というものでした。

実はこの時、私のスタッフも自身の親の免許更新で苦労していました。公安の窓口へ行ったところ、担当者自身が新しい手続きや状況をまったく理解しておらず、話を進めるのが非常に大変だったとこぼしていました。

これは、私や私のスタッフだけの特殊なケースではありません。2025年、ベトナム全土で運転免許証の発行がシステムレベルで麻痺するという、国家規模の行政危機が起きているのです。

この記事では、この未曾有の混乱の裏側で一体何が起きているのかを、私の体験も交えながら、掘り下げていきたいと思います。

  • なぜ、突然こんな事態になったのか?

  • 「カードの材料がない」は本当? 遅延を引き起こす3つの根本原因

  • ベトナム政府が打ち出した「切り札」と、私たち外国人が直面する現実

  • この混乱の背景にある、壮大な「2025年ベトナム交通大改革」の全貌

この混乱の全体像を理解し、私たちが今どうすべきかを考える一助となれば幸いです。


第1章:すべての始まり - ある日突然、お役所が”引っ越し”した

2025年にベトナム全土を襲ったこの運転免許証発行の麻痺状態。その根本的な引き金を引いたのは、政府による意図的かつ大規模な行政改革でした。

ずばり、運転免許の試験、新規発行、更新に関するすべての権限が、これまで管轄していた「運輸省」から「公安省」へ全面的に移管されたのです。

この歴史的な権限移譲は、2025年2月19日をもって正式に発効しました。この日を境に、私たちが運転免許に関するあらゆる手続きを行う窓口は、運輸省の関連機関から、地域の公安事務所へと一斉に変更されました。

考えてみてください。これは単なる窓口の変更ではありません。全国に存在する6,050万件以上もの膨大な運転免許の記録データを、そっくりそのまま別のお役所に移動させるという、途方もない大事業です。企業で言えば、ある日突然、経理部が担当していた業務のすべてを、人事部に丸投げするようなもの。しかも、十分な引き継ぎ期間や研修、システム連携のテストもなしに、「今日からよろしく!」と号令をかけたのです。

もちろん、政府も多少の混乱は予期していました。しかし、その進め方に大きな問題がありました。段階的な移行ではなく、特定の日付で一斉に権限を切り替える「ビッグバン」アプローチが採用されたのです。その結果、新しい担当官庁である公安省の処理能力、システム、そして供給網は、初日から全国の需要にまったく対応できず、即座にパンク状態に陥りました。

権限移譲直後から、ソフトウェアの不具合、物理カードの材料不足、そして深刻な未処理案件の山が連鎖的に発生したことは、偶然ではありません。これらはすべて、「権限移譲」という根本原因から直接引き起こされた、必然的な結果だったのです。

私のスタッフの親が経験したように、「担当者自身が状況をまったく理解していない」という事態は、このトップダウン改革の典型的な症状です。中央官庁レベルの混乱が、末端の現場職員にそのまま津波のように押し寄せた結果です。彼らは、リアルタイムで機能不全に陥っている新しいシステムについて、国民からの問い合わせに対応するための十分な情報も訓練も受けておらず、有効なサポートを提供できる状態ではなかったのでしょう。


第2章:なぜ免許証は届かない?複合的危機の3つの正体

今回の危機は、単一の原因によるものではありません。「権限移譲」という最初の衝撃が、複数の問題を同時に引き起こし、それらが互いに悪影響を及ぼし合った「複合災害」なのです。遅延の直接的な原因は、主に以下の3つの核心的な要素に分解できます。

1. 供給網の失敗:「カードの材料がない」は本当だった

私が窓口で言われた「カードの材料が不足していて…」という理由。これは、単なる言い訳ではなく、公式に確認された事実でした。

象徴的なのが、2025年の危機に先立つ2024年にロンアン省で起きた出来事です。同省の交通運輸局は、年度初めに計画していた免許証の印刷材料(白紙のPETカード)が完全に底をついたため、免許証の交付を延期すると公式に発表しました。新たな材料を調達するための入札を進めているものの、供給が再開されるのは数ヶ月後になる見込みだと説明し、住民に対して「同情と理解」を求めるという異例の事態にまで発展しました。

この2024年の時点で既に露呈していた供給網の脆弱性が、2025年の全国的な権限移譲の際に、国家規模で再発・悪化したのです。新しい管轄である公安省が、全国分の物理カードを安定的に調達・供給する体制を、まったく構築できていなかったことを示唆しています。

2. デジタルインフラの崩壊:新システムが全く動かない

権限移譲に伴って導入された、真新しい免許管理ソフトウェア。これもまた、悲惨な状況でした。公安省の交通警察局の幹部が「いくつかの技術的な問題が発生し、それが発行遅延を引き起こしている」と公式に認めるほど、システムは安定稼働には程遠かったのです。

具体的にどんな問題が起きていたのか?ある地方からの報告では、信じられないようなエラーが多発していました。

  • 有期限の免許証を申請したのに、なぜか無期限の免許証が印刷される(またはその逆)。

  • バイクの免許だけを申請したのに、勝手に自動車免許もセットで印刷されてしまう。

  • 印刷された免許証の裏面に、肝心の発行日が記載されていない。

  • 免許証の表面と裏面で、記載されている免許区分が食い違っている。

これらは単なるバグではなく、システムの信頼性を根底から覆す致命的な欠陥です。このようなエラーが多発するシステムでは、安心して免許証を発行できるはずがありません。修正が完了するまで、一部の省では免許発行に関するすべての手続きを一時停止せざるを得なくなりました。

3. 未処理案件の連鎖的増大:負のスパイラルに陥った現場

行政と技術、両方の失敗は、処理すべき業務の深刻な滞留、いわゆる「バックログ」を生み出しました。2025年7月の時点で、全国で運転免許の試験と発行に関する膨大な「未処理案件」の山ができていたと報じられています。

さらに悪いことに、この状況は申請者の間に不信感とためらいを生み出し、事態をさらに悪化させる負のフィードバックループを形成しました。ハノイの一部の運転教習所では、申請者が「どうせ免許証はすぐにもらえないだろう」と考え、意図的に試験の受験を延期するケースが報告されています。

「材料不足」という単一の理由ではなく、このように多層的かつ相互に関連したシステム全体の機能不全の、最終的な結果なのです。


第3章:政府の切り札と、私たち外国人が直面する現実

さて、ここからが重要なパートです。この危機的状況に対し、ベトナム政府はただ手をこまねいていたわけではありません。彼らは、二つの対策を打ち出しました。しかし、その一つは、私たち外国人にとっては「絵に描いた餅」に過ぎないのが現状です。

A. トップダウン指令:「7月30日までに全て解決せよ!」

まず政府は、国民の不満の元凶である未処理案件の山を解消するため、非常に強力なトップダウン指令を発動しました。2025年7月18日、公安省交通警察局は、全国の警察部門に対し、「最大限の人員と試験官を動員」し、免許の試験と発行に関するバックログを解消するよう命じたのです。そして、そこには「2025年7月30日までにバックログを完全に解決せよ」という、極めて野心的な期限が設定されました。

B. VNeIDソリューション:ベトナム国民向けのデジタルな回避策

そして、政府が打ち出したもう一つの「切り札」が、国家デジタルIDアプリケーション「VNeID」の活用です。

これは、試験に合格していれば、物理的なカードが手元になくても、VNeIDに表示されるデジタル免許証情報が、法的に有効な免許証として認められるというものです。

しかし、です。私たち外国人にとっては、この恩恵を受けることができません。

なぜなら、現時点(2025年7月)で、外国人向けに発行されるVNeIDアカウントには、運転免許証の情報を統合する機能が実装されていないからです。

つまり、ベトナム国民はVNeIDというデジタルな回避策を使えますが、私たちは依然として、物理的なカードが印刷され、発行されるのをひたすら待ち続けるしかない、という厳しい現実に直面しているのです。私が「いつになるか分からない」と言われたのは、まさにこの状況を反映しています。


第4章:背景にある「2025年ベトナム交通大改革」の嵐

今回の免許証を巡る混乱は、孤立した行政の失敗ではありません。実はこれ、ベトナム政府が2025年に断行した、交通安全に関する枠組み全体を近代化するための、一連の抜本的な改革の渦中で発生した「副作用」なのです。

システムが限界に達した背景には、複数の巨大な改革が同時に実行された「改革過多」ともいえる状況がありました。2025年のベトナムのドライバーは、免許証問題以外にも、以下のような大きな変化に直面しています。

一つは、日本の制度と同様に、すべての運転免許証に年間12点の持ち点が付与される新しい点数制度の導入。

そしてもう一つ、さらにインパクトが大きいのが、交通違反に対する罰金額の劇的な引き上げです。例えば、自動車による信号無視の罰金は従来の600万ドンから2,000万ドンへ、不注意で車のドアを開けてバイクにぶつかりそうになった場合の罰金は60万ドンから2,200万ドンへと、常軌を逸したレベルで高騰しました。

これらに加え、二輪車の免許区分の再編や、監視カメラを活用した取り締まりの強化なども同時に進められています。

一連の改革の主導機関となった公安省の行政機構に、前例のない負荷がかかりました。「免許の管轄権移管」「新しい点数制度の運用」「罰金制度の厳格な執行」という三つの巨大なタスクを同時に処理することは、いかなる組織にとっても至難の業です。このような状況下で、免許発行という一つの領域でシステムが崩壊したのは、ある意味で必然だったのかもしれません。


第5章:結論:待つしかない私たちと、これから始まる本当の混乱

ここまで見てきたように、現在の運転免許証の発行遅延は、野心的な行政改革のスピードに、現場の実行能力が追いつかなかったことによって引き起こされた、構造的な問題です。

では、VNeIDという解決策が使えない私たちは、どうすればいいのでしょうか。

残念ながら、現時点で私たちにできることは限られています。それは、「物理カードが発行されるのを辛抱強く待つ」こと、そして「定期的に公安事務所に状況を確認する」ことくらいです。

さらに問題を複雑にしているのが、2025年7月から始まった、さらなる行政の大改革です。自治体の統合や省庁の再編、そして膨大な数の法律の変更が予定されています。

正直なところ、これらの国家レベルの大変動を前にすると、私たちの運転免許証の問題は、数ある混乱の中のほんの一つの事象に過ぎないのかもしれない、とさえ思えてきます。これからベトナム社会は、より大きな変化の波に直面し、免許証問題に限らず、私たちの生活の様々な場面で、予測不能な問題が起こる可能性があります。

今回の危機は、ベトナムがより安全で効率的な社会へと生まれ変わるための「成長痛」なのでしょう。しかし、その痛みを、私たち外国人はより強く感じざるを得ない状況です。この歴史的な転換期を、私たちは正確な情報収集を怠らず、お互いに情報を共有し、そして何より辛抱強く乗り越えていくしかありません。

私の免許証は、一体いつ手元に届くのでしょうか。その日が来たら、またご報告したいと思います。