昨日、携帯電話が止められた。
今年の春に施行された新しい通信規則によるもので、SIMカードと、その持ち主の顔・国民IDを一対一で結びつける。登録情報が古いままだったりすると、発信が止められ、本人確認をやり直すまで解除されない。国民の電話番号を、国の身分証データベースと完全に紐づけてしまおうという話だ。
事前に通知が来たのでViettelに何度か行っていたが、大変な混雑で先送りにしていた。
法律の変更で電話が止まったという些細な出来事だが、ここ一年あまり、ベトナムという国が、自分自身を根っこから作り直しているうちのひとつの現象のような気がした。
まず、地図が書き換えられた
去年(2025年)の7月、ベトナムの地方行政区分が、63の省・中央直轄市から34へと一気に減らされた。半分近くが消えた計算になる。
日本で言えば、47都道府県をある日突然25くらいに統合するような話だ。しかも県境が引き直されるだけではない。省と市町村の間にあったdistrictに相当する行政レベルそのものが、まるごと廃止された。三階建てだった行政機構を、二階建てにしてしまったのである。
いちばん下の単位も束ねられた。一万を超えていた末端の行政区(コミューン)が、三千あまりに統合された。この一連の再編で、地方公務員の職は八万近く減ったと報じられている。公務員のおよそ五人に一人が、職を失う計算だという。
確か去年の6月半ばに国会で可決されて、6月30日までに終了させるようという指示だったと記憶している。
このとき私の頭に浮かんだのが、明治初期の廃藩置県だった。
1871年、明治政府は約260あった藩を一夜にして廃止し、府と県に置き換えた。数百年続いた領地の区分を、中央からの号令ひとつで消し去った。とてつもない断行だったはずだ。
末端を束ねたところまで、よく似ている。明治政府はその後、七万余りもあった村や町を、一八八〇年代の終わりに一万五千ほどへと統合した。「明治の大合併」と呼ばれる、これも凄まじい再編だ。一万を超えるコミューンを三千あまりにまとめたベトナムと、ほぼ同じ「末端を五分の一に束ねる」動きを、百三十年以上前の日本もやっていたことになる。
ベトナムが去年やったことは、規模も背景もまるで違う。それでも「中央が決めて、地図を引き直し、抵抗らしい抵抗もないまま完了する」という体感は、驚くほど似ている気がした。
これは始まりに過ぎなかった。
「廃藩置県」だけではなかった
同じ時期に、これだけのことが並行して起きていた。
中央の省庁も束ねられた。 地方だけの話ではない。同じ年の初め、政府の省・省級機関が22から17へと減らされた。財務省が計画投資省を吸収し、建設省と運輸省が一つになり、農業と環境の役所が合併して新しい省が生まれた。これに伴い、中央の公務員ポストも二万以上が削られたとされる。明治が内閣制度をつくり、次々と新しい省を「建て増して」いったのとは逆に、ベトナムは肥大した役所を「削り落として」いる。方向は反対でも、中央の機構をまるごと組み替えるという荒業では同じだ。
憲法まで書き換えられた。 「県」の廃止は、実は現行憲法(2013年制定)に抵触する。三階建ての行政を定めた条文があるからだ。ふつうの国なら、憲法改正は何年もかけて議論する重い作業だ。ところがベトナムは、審議入りからわずか四十三日で改正案を可決した。国会に出席した議員四百七十人、全員一致。ベトナム史上でも指折りの速さの憲法改正だったという。
法律そのものが総ざらいされている。 地方の再編だけで約一万九千本、省庁の再編でさらに約七千本の法令が、見直しや修正を迫られていると報じられている。あまりの量に、政府は「二〇二七年まで、法律を機動的に手直しできる特別権限」を国会から与えられた。裁判所の仕組みも、四層から三層へと組み替えられている。
役所の名前が変わり、担当窓口が変わり、必要な書類が変わり、根拠となる法律が変わる。毎日のように新しい通達が降ってくる——その手触りは、明治のはじめ、暦を変え、身分を変え、税を変え、軍を変えていった、あの時代の庶民が味わったものに、少しだけ似ているのかもしれない。
国の「考え方」そのものを入れ替える
ここまでは、いわば「器」の話だ。省を減らし、県を消し、法律を直す。だが、私がもっと本質的だと感じたのは、その裏側にある「国是」のようなものだった。
今のベトナムの改革は、四つの決議を土台にしていると、国のトップは繰り返し語っている。科学技術・イノベーション、国際統合、法づくりの刷新、そして民間経済の育成。この四つを「国を離陸させる四本の柱」と呼んでいる。
私が唸ったのは、その根っこにある発想の転換だ。国のあり方を、「管理」から「奉仕」へ。「保護」から「創造的な競争」へ。「受け身の統合」から「能動的な統合」へ——公式にそう掲げている。役所は国民を管理する存在ではなく、国民に奉仕する存在であるべきだ、と。
これを聞いたとき、私はやはり明治のことを思った。「五箇条の御誓文」で新しい国の方針を天下に示し、旧い身分や仕組みを否定して、近代国家の設計図を描き直した、あの時期のことを。国のかたちを変えるだけでなく、国の考え方の芯を入れ替えようとしている。少なくとも、そう宣言している。
そして、それは生活に降ってくる
こうした大きな話は、遠い政治の世界の出来事に聞こえるかもしれない。だが、ベトナムの面白い——そして少し怖い——ところは、それが容赦なく日々の暮らしに降りてくることだ。
税金のかたちが根本から変わった。 この一月から、街の小さな商店や屋台、個人事業者にかけられていた「みなし課税」の仕組みが廃止された。これまで多くの零細事業者は、税務署が決めた「だいたいこのくらい」という金額を年間で納めればよかった。それが、実際の売上を自分で申告し、帳簿をつけ、電子インボイスを発行する方式へと切り替わったのだ。対象となる個人事業者は、全国でおよそ二百万。長年続いてきた「どんぶり勘定」の時代が、ある日を境に終わった。
教育も変わった。 幼稚園から高校まで、公立校の授業料が無償化された。ただ、教育については、無償化は話の入口に過ぎない。ここは明治との対比がいちばん深くなるところなので、章をあらためて書きたい。
そして、冒頭の電話だ。あれは単なる通信規制ではなく、国民一人ひとりを顔認証と国民IDと電話番号で束ねていく、大きな仕組みの一部だった。
ここでもまた、明治が重なる。近代国家が真っ先に手をつけたのも、実は「国民を一人残らず把握すること」だった。明治政府は一八七一年に戸籍法を定め、翌年、全国民を家ごとに登録する壬申戸籍をつくった。誰がどこに何人住んでいるのかを国家が正確に握る——税をとるにも、兵を集めるにも、まずそれが要るからだ。明治は紙と筆と役人の足で、国民を「見える」ようにした。ベトナムは今、それを顔認証とデータベースとスマホのアプリでやろうとしている。道具は違えど、国家が国民を掌の上に載せていく、その手つきは同じだ。冒頭で私の電話が止まったのは、その掌が、たまたま私の上を通り過ぎた瞬間だったのだろう。
明治の地租改正が農民の暮らしを根底から揺さぶり、学制が子どもたちを新しい学校へ送り出したように、今のベトナムでも、税と教育という、生活のいちばん柔らかいところに、国家の手が直接届き始めている。
「学制」の国の、次の一手
明治の改革のなかで、後の日本をいちばん深いところで支えたのは、廃藩置県でも徴兵令でもなく、たぶん学制(1872年)だったと私は思っている。「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」——村に学ばない家を一軒も、家に学ばない人を一人も残さない。全国津々浦々に小学校を建て、士族の子も百姓の子も同じ教室に座らせた。一部の秀才を育てたことではなく、庶民の裾野をまるごと底上げしたこと。それが数十年後、工場を動かし、帳簿をつけ、新聞を読む「近代の国民」を生み、工業化の土台になった。
では、今のベトナムの「普通の子どもたち」はどうなのか。
実は、ここがベトナムという国のいちばん面白いところだ。国際的な学力調査PISA(15歳対象)で見ると、ベトナムの生徒は数学で72%が基礎レベル以上に達していて、これはOECD平均の69%を上回る。読解も77%対74%で平均超えだ。特筆すべきは公平さで、最も恵まれない家庭の生徒の数学の平均点は、同じ境遇の世界中の子どもたちの中で最高水準にある。恵まれない生徒の13%が、国内の学力上位4分の1に食い込んでいる。豊かな家と貧しい家の学力差も、先進国の平均より小さい。
つまりベトナムの教育の本当の実力は、オリンピックのメダルのような頂点ではなく、貧しい家の子も含めた「普通の子」を、先進国の何分の一という予算で、そこそこ均等に一定水準まで引き上げてきたところにある。「教育の奇跡」と呼ばれてきたのは、この裾野の厚さのことだ。明治の学制が目指したものを、この国はすでにかなりの程度、手にしていることになる。
ただし、正直に書けば、その足元に黄色信号も灯っている。直近の調査では、ベトナムの成績は数学31位・読解34位・科学37位と、参加以来もっとも低い順位に沈んだ。科学の平均点は前回から71点も落ちた。コロナ禍は各国共通の逆風だったが、教育研究機関のトップ自身が「みな同じく疫病に遭ったのに、なぜ我々の落ち込みはこれほど深いのか」と公の場で問うたほどだ。しかも意外なことに、最上位層は薄い。数学で最高レベルに達した生徒はわずか5%で、シンガポールの41%はおろかOECD平均の9%にも届かない。生徒の4割は、教員不足が授業に支障をきたしていると報告される学校に通っている。裾野は厚いのに、頂は細く、そして全体が少し沈み始めている——それが等身大の姿だ。
この文脈で見ると、いま進んでいる教育改革の設計図が読めてくる。去年の夏、党の最高指導部は教育に関する決議を出し、「教育こそが国の未来を決定づける」と、かつてない強い言葉で位置づけた。2045年までに世界トップ20の教育システムに入る、という数値目標まで掲げている。国家予算の2割以上を教育に充て、教員の手当を最低でも7割増し(へき地では倍増)にし、国境地帯には250近い寄宿学校を建てて給食まで支援する。一方で、半導体・AI・原子力といった戦略分野の学生には奨学金を直接口座に振り込み、英語を「学校の第二言語」にする十年計画を走らせる。
要するに、三段構えの賭けだ。沈みかけた裾野を守り直し、山あいや国境の取りこぼしていた子を拾い上げ、そのうえで、これまで細かった頂を国策で分厚くする。明治が学制で裾野をつくり、のちに帝国大学で頂を育てたのと同じ順番を、ベトナムは「裾野はもうある。次は頂だ」という地点から、一気にやろうとしている。
そして、その頂で育てようとしている人材の行き先が、次の章の話につながる。半導体、原子力、高速鉄道——国が建てようとしている「工場」を動かす人間を、国が同時に育てているのだ。
未来への、突貫工事
過去を壊し、現在を組み替えるだけではない。未来への基礎工事も、猛烈な速度で進んでいる。
長らく凍結されていた原子力発電が、復活した。南北を貫く全長千五百キロを超える高速鉄道の計画が動き出した。時速三百五十キロ、総額はおよそ六百七十億ドル。ベトナム史上最大のインフラ事業だという。中国とつながる新しい鉄道、大型の国際空港、深水港——去年の暮れには、全国で二百三十を超える事業が、たった一日で同時に着工・開通したと報じられた。
国のトップは、二〇二五年からの数年間を「離陸のための全力疾走の期間」と呼ぶ。二〇四五年、建国百年までに高所得国の仲間入りをする。それが、この国全体を貫く号令だ。
そして、この突貫工事は、私が暮らすハノイの街そのものにも及んでいる。つい先日の六月二十二日、ハノイは五本のメトロ路線の建設を、同じ日に一斉に着工した。合わせて三百キロを超える。構想全体では、最終的に十八路線・約九百八十キロの都市鉄道網を張り巡らせるという。東京の地下鉄が、メトロと都営を合わせておよそ三百キロだから、その三倍超の網を、これから描こうとしていることになる。
街の顔も変わり始めた。ハノイの象徴・ホアンキエム湖のほとりでは、長年ランドマークだった通称「サメの顎」ビルの取り壊しが決まり、湖の東岸では官庁や住民を立ち退かせて広場に変える計画が動いている。市内に残る旧ソ連式の老朽集合住宅群も、メトロ駅と一体の再開発が検討され始めた。古い家々を潰し、駅を核に街を編み直す——教科書で読んだ「市区改正」、つまり明治の東京改造とそっくりの絵が、目の前で描かれている。
ところが、この街の大改造には、一つだけ、目に見えて押し返されているものがある。バイクだ。
去年の夏、首相は号令をかけた。「二〇二六年七月一日をもって、環状一号線の内側からガソリンバイクをなくせ」。ハノイのバイクは約六百九十万台。あの、交差点を埋め尽くすバイクの奔流こそがハノイだと思っていた私には、「バイクの都をやめる」という宣言は、ほとんど街の人格を変えると言っているに等しく聞こえた。
だが、その後の一年で、号令は少しずつ縮んでいった。年末に市議会が可決した決議では、全面禁止は「時間帯・区域限定の規制」に姿を変えた。市自身が、住民の生活やインフラの実情に合わせて行程を緩める必要があった、と認めている。今年の春に市が示した案では、最初の半年間の対象はホアンキエム地区の十一本の通り、しかも週末の時間帯だけにまで絞り込まれていた。そして期限だった七月一日は——つい昨日のことだ——少なくとも私の目に映る街の風景は、何ひとつ変わっていない。バイクの奔流は、今日も轟々と流れている。
私はこれを、笑い話としてではなく、むしろ大事な観察として書いておきたい。憲法は四十三日で変えられる。省は二週間で消せる。それでも、六百九十万台のバイク——つまり庶民の足と生計——だけは、号令では止まらなかった。この国の断行力にも、ちゃんと限界があるのだ。そしてその限界を作っているのが、権力者ではなく市井の人々の暮らしの重みだ、というところに、私は少しほっとしてもいる。
明治の日本も、まったく同じことをした。維新からわずか四年後の一八七二年、新橋と横浜のあいだに日本初の鉄道が走った。同じ年、官営の富岡製糸場が動き出し、国が自ら最先端の工場を建てて産業を興していった。「富国強兵」「殖産興業」を掲げ、鉄道と工場で西洋に追いつこうとしたのだ。
面白いのは、その野心のスケールだ。明治の第一号鉄道は、新橋〜横浜のおよそ二十九キロ。当時の人々は、その煙を吐いて走る鉄の塊に度肝を抜かれた。ベトナムがいま引こうとしているのは、全長千五百キロを超え、時速三百五十キロで駆ける高速鉄道である。同じ「鉄道で国をつくる」でも、出発点の桁が違う。百五十年分の技術を一足飛びに手にした国が、明治と同じ野心を、はるかに大きなスケールで振り回している。今のベトナムは、半導体とデータベースの時代に、あの頃の日本と同じような焦りと、それをはるかに上回る野心をもって走っている。私にはそう見える。
タイは、なぜやらなかったのか
ここで、ひとつ寄り道をしたい。「こんな国の作り直しを、他の国はやったことがあるのか」という問いだ。
実は、東南アジアには一か国だけ、明治とまったく同じ時代に、明治とよく似たことを自力でやってのけた国がある。タイだ。チュラロンコン大王——明治天皇とほぼ同時代を生きた王——は、半ば独立した地方領主の寄せ集めだった国を中央集権の県制度に組み替え、近代的な省庁をつくり、奴隷制を廃止し、鉄道を敷き、学校を建てた。アジアで植民地化を免れたのが日本とタイの二か国だけだったのは、偶然ではない。この二か国だけが、あの時代に「上からの自己改造」に成功したのだ。
問題は、その後だ。二十世紀の後半、タイもマレーシアも、インフラそのものは手に入れた。バンコクには高架鉄道と地下鉄が走り、クアラルンプールには当時世界一の高さを誇るツインタワーが建った。マレーシアにいたっては、一九九一年に「二〇二〇年までに先進国入りする」という国家ビジョンまで高らかに宣言した。だが——二〇二〇年は来て、そして過ぎた。タイは七十を超える県を一度も大胆に再編したことがなく、クーデターを重ねながらも官僚機構そのものは温存され続けた。両国とも、電車は通ったけれど、国家という機械を根っこから作り直す「第二の建国」は、一度もやらなかった。そして両国とも、いつしか「中所得国の罠」——一人当たり所得が中程度で頭打ちになり、先進国に届かない停滞——の代表例として語られるようになった。
逆に、その罠を突き抜けた国々を眺めると、明治後の日本、一九六〇年代の韓国、シンガポール、改革開放の中国——いずれも、国家機構そのものを猛烈な速度で作り直した時期を持っている。もちろん、それが成功の原因だったのか結果だったのか、学問の世界でも決着はついていない。ただ、少なくとも並びとしては、はっきりしている。
だとすれば、今のベトナムの賭けは、こう言い換えられる。電車を買うだけでは、罠は抜けられない。国家という機械そのものを、作り直さなければならない——タイが取らなかった道、そして百五十年前の日本と、半世紀前の韓国が取った道に、この国は張ったのだ。あの二週間の省の統合も、四十三日の憲法改正も、止められた私の電話も、ぜんぶこの一つの賭けの上に載っている。そう考えると、あの異様な速度にも、筋が通って見えてくる。
似ているところと、似ていないところ
ここまで書いてきて、自分でも「安易な例えをしていないか」と立ち止まる。
明治維新と今のベトナムには、決定的に違う点がある。明治維新は体制そのものの転換だった。徳川の幕府が倒れ、天皇を中心とする新しい国家が生まれた。旧い権力が倒れて、新しい権力が立ったのだ。
一方、今のベトナムで起きているのは、体制の内側での作り直しである。共産党という統治の枠組みはそのままに、その骨組みを大胆に組み替えている。倒すべき旧勢力がいて改革が起きたのではなく、統治する側が自ら進んで自分の体を削っている。ここは明治とはまるで違う。
だから、これを「ベトナムの明治維新」と呼んでしまうのは、たぶん正確ではない。
それでも、なお重なると感じる部分がある。それは「近代的な国家をつくる」という、上からの強烈な意志と、それを実現する速度だ。
そして、ここが私がいちばん言いたいところなのだが——明治の日本も、実はかなりの速さで走った。廃藩置県が1871年、学制と鉄道の開業が1872年、徴兵令と地租改正が1873年。士族の家禄を整理し終えたのが1876年、最後の大きな内乱だった西南戦争が終わったのが1877年。つまり、県・税・軍・学校・身分という、中央集権的な近代国家の"基礎"は、維新からおよそ十年で、あらかた出来上がっていた。突貫工事だったのだ。
ただし、その上に立つ大日本帝国憲法が発布されたのは、ようやく1889年のこと。維新から二十年以上が過ぎていた。明治の指導者たちは、憲法だけは急がなかった。伊藤博文らが欧州へ渡り、プロイセンの制度を何年もかけて研究し、いちばん最後の"仕上げ"として、慎重に据えたのだ。基礎は約十年で一気に、その上の憲法だけは二十年かけてじっくりと。そういう二段構えだった。
ベトナムは、その明治が十年でやってのけた"基礎工事"に相当することを——地図の書き換え、省庁の再編、税制の刷新、教育の無償化、そして鉄道や原発の建設まで——わずか一年半ほどの間に、同時並行でやろうとしている。単純に割れば、六倍か七倍の速さだ。しかも、明治が二十年かけて慎重に据えた憲法さえ、ベトナムは四十三日で改正してしまった。明治が"最後にじっくり置いた石"を、ベトナムは奔流の途中で、ひょいと入れ替えたことになる。
これは廃藩置県「だけ」ではない。明治がおよそ十年かけた国造りの全体が、猛烈に早回しで再生されているような光景だ。そう考えて、ようやく私は、自分が感じていた目まいの正体が少し分かった気がした。
分からないまま、書いておく
速すぎる変化は、必ずどこかに歪みを生む。実際、統合されたばかりの末端の役所では、県から降ってきた千を超える新しい仕事に人手が追いつかず、住民が手続きに困っているという話も聞く。地図の見直しが期限に間に合っていない省もあると報じられている。強い意志と速度は、そのまま強い副作用にもなる。
私が経験した携帯電話店での混雑ぶりもそうだ。
明治の改革だって、後から振り返れば「成功した近代化」として語られるけれど、その渦中を生きた人々にとっては、理不尽と混乱の連続だったはずだ。地租改正には各地で一揆が起きた。歴史の評価は、いつも後からしかつかない。
二〇二〇年代のベトナムで、一つの国が自分自身を根っこから作り直そうとしている、その現場に、たまたま居合わせている。電話が止まって面倒だと舌打ちしながら、それでもどこかで、教科書の中でしか知らなかった「国造り」の空気を、肌で吸っているような気がしている。
百年後、この時代がどう語られるのか。それは、まだ誰にも分からない。



