前回の記事で、「電車を買うだけでは、罠は抜けられない。国家という機械そのものを、作り直さなければならない」と書いた。タイもマレーシアも、高架鉄道もツインタワーも手に入れたのに、国家という機械の作り直しだけはやらなかった。そして「中所得国の罠」の代表例として語られるようになったと書いた。
書いたあとで、自分でも引っかかっていた。本当にそうか。マレーシアのマハティールは、あれだけ大きなことをやったではないか。「やらなかった」と切り捨てるのは、乱暴ではないか。
だから今回は、その答え合わせをしたい。世界地図を広げて、「国を作り直した国」と「作り直さなかった国」を並べてみる。そうすると、一つの条件が浮かび上がってきた。主役はあくまで、ベトナムだ。
罠を抜けた国は、どこかで必ず、国を暴力的に作り直している
まず、大きな相関から。第二次大戦後に「中所得の罠」を突き抜けて高所得国に届いた国々——戦後日本、韓国、台湾、シンガポール——を並べると共通点がある。どの国も、経済が伸びる前後に一度、国家そのものを暴力的なまでの速度で作り直した時期を持っている。
ジョー・スタッドウェルという人が『アジアの世紀の終わりに(How Asia Works)』で整理した、有名な論点がある。抜けた国はたいてい二段構えだ。第一に、暴力的な土地改革で地主階級を解体し、土地を耕す人に配る。第二に、その更地の上で、国家が規律をもって工業化を主導する。逆に、この「地主の解体」を最後までやれなかった国は、たいてい罠から抜けられない。
「抜けた/抜けなかった」を分けるのは、強権を振るったかどうかではない、ということだ。マレーシアもフィリピンもインドネシアも、じゅうぶんに強権的だった。分かれ目は、その強権をどこに向けたかにある。旧いエリート層——地主や旧支配層や、自分を支える既存の構造——を、進んで解体する方向に振るったのか。それとも、自分の土台を温存し、私物化する方向に振るったのか。この一点だ。
だが、地図を眺めるうちに、もう一つ、これより深い条件があることに気づいた。それは後半で書く。
抜けた国々——ベトナムが今なぞっている道
日本(明治)。 廃藩置県で数百年続いた藩を一夜で消し、武士という身分そのものを解体し、秩禄処分でその家禄を打ち切った。徴兵令、地租改正、学制。旧支配層である武士を、国家が意図して社会的に消滅させた。勝った側が、自分たちの出身階級を自分で畳んだ。
韓国。 二段階だった。まず朝鮮戦争前後の農地改革で地主階級をほぼ解体し(そこには米軍政の後押しもあった)、その更地の上に、朴正煕が一九六一年のクーデターで権力を握って開発独裁を敷いた。経済企画院という中央の司令塔をつくり、財閥を育てながらも、結果を出せない企業は容赦なく支援を切った。
台湾。 蒋介石の国民党は、大陸から渡ってきた「よそ者」政権だった。だからこそ、土着の地主としがらみがなく、三七五減租や耕者有其田といった土地改革で、地主層を情け容赦なく解体できた。その更地の上で、国家が経済を主導した。
シンガポール。 リー・クアンユーと人民行動党。都市国家だから「県の再編」は要らない。そのぶん、行政機構と社会そのものを設計し直した。汚職捜査局で腐敗を根こそぎにし、能力主義の官僚制を築き、住宅開発庁の公営住宅で国民を丸ごと組織化した。
中国。 これも二段階だ。毛沢東の革命と土地改革で地主を暴力的に消し、鄧小平の改革開放で経済特区をつくり、省の権限を組み替えた。共産党の一党支配という枠は保ったまま、その内側の骨組みを大胆に入れ替えた。この「体制の枠は残して、中身を作り直す」というやり方は、いまのベトナムにいちばん近いモデルだと私は思う。ただし正直に書けば、中国自身もまだ高所得には届かず、上位中所得の一歩手前にいる。だから「抜けた確定例」ではなく「抜けかけの先行例」として見るのが正確だろう。
これらの国々が通った道を、ベトナムはいま、なぞろうとしている。
抜けなかった国々——やったけれど、やらなかった
一方で、「やったけれど、やらなかった」国々がある。ここがいちばん誤解されやすいので、丁寧に書きたい。
マレーシア。 マハティール首相は、決して「電車を買っただけ」ではない。一九九一年に「ビジョン2020」で先進国入りを国是に掲げ、東方政策で日韓をモデルに開発主義へ舵を切り、国営企業の大規模な民営化を断行した。国民車プロトンを育て、行政首都プトラジャヤをまるごと新設して政府を移転させた。「上からの強烈な意志」なら、彼にもあった。だが彼がやったのは、国家という機械を「削って組み替える」方向ではなく、「盛って建て増す」方向だった。十三ある州は一度も再編せず、肥大した官僚機構やブミプトラ政策の骨格には手をつけない——むしろ強化した。皮肉なことに、彼の目玉だったプロトンの保護や重工業は、いまでは「罠を抜けられなかった一因」として挙げられている。
タイ。 チュラロンコン大王が明治期に中央集権化に成功したのは、記事でも触れた通りだ。問題はその後だ。七十を超える県を一度も大胆に再編せず、クーデターを重ねながらも、官僚機構と軍と王室という権力構造そのものは温存され続けた。断行する主体がクーデターごとに入れ替わり、「誰が国を作り直すのか」が、ついに定まらなかった。
フィリピン。 マルコスは戒厳令で強権を握ったが、それは国家機構の合理化ではなく、縁故支配の私物化だった。土地改革は不徹底で、地主エリートが議会を握り続けた。
視野を広げれば、ラテンアメリカ——アルゼンチン、ブラジル、メキシコ——は、この「開発はしたが、自己解体しなかった国」の巨大な標本群だ。鉄道もインフラも輸入代替工業化もやったのに、土地寡頭制とエリート構造を最後まで壊せず、一世紀近く罠の中にいる。
別の道もある——ヨーロッパが示した「体制ごと作り直す」ルート
ここで、東アジアの外に目を向けたい。実は、まったく別のやり方で罠を抜けた国々がある。旧共産圏だ。
ポーランド。 強権者による改造ではなく、体制転換型の作り直しだった。一九八九年に共産体制が崩壊し、翌年、バルツェロヴィチ副首相兼財務相が「ショック療法」を断行する。価格の自由化、通貨の交換性回復、民営化、マクロ安定化を、一気に。旧共産国家の機構を、土台から組み替えた。そして決定的だったのが、二〇〇四年のEU加盟という外部の錨だ。加盟条件が改革を強制し、投資と構造基金が流れ込み、後戻りを不可能にした。東アジアで土地改革が果たした「旧構造を壊して更地にする」役割を、ポーランドではEUという外圧が果たしたのである。結果、二〇〇九年の金融危機でEUで唯一プラス成長を保ち、とうに高所得国入りした。
バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)は、さらに過激なショック療法をやり、全て高所得入り。とくにエストニアの電子政府は、国家機構そのものをデジタルで作り直した例で、ベトナムがいま進める顔認証・国民ID・電話番号の統合と、精神的に響き合う。チェコやスロベニアも同様、直近ではブルガリアも高所得に届いた。
対照的なのが、同じ体制転換をしながら中途半端に終わった国々だ。ウクライナは改革が寡頭資本に取り込まれて途中で止まり、いまも上位中所得の下のほうにいる。ロシアは直近で高所得に分類されたが、それは資源と戦時経済が押し上げた「資源による離陸」で、制度を作り直した結果ではない——脆い高所得だ。ラテンアメリカで唯一「抜けかけ」に近いチリも、ピノチェト独裁下の急進的な市場改革でモデルを作り直した一方、高い格差という歪みを抱え続けている。「壊したあと、何で更地を固めたか」で、運命がくっきり分かれている。
だが、トルコを見よ——「一度きり」では、足りない
そして、この論のいちばん深いところに、トルコがいる。
トルコは、東アジア型でも東欧型でもない。明治型の「上からの自己改造」の中東版だ。ケマル・アタチュルクが一九二〇〜三〇年代にやったことは、規模だけ見れば明治以上に過激だった。スルタン制とカリフ制を廃止して旧い宗教的秩序を壊し、イスラム法をまるごと捨ててスイス民法を移植し、政教分離を国是にした。極めつけは一九二八年の文字改革——アラビア文字をラテン文字に、ほぼ一夜で切り替えた。識字層全員が、読み書きを一から学び直させられたのだ。明治が暦と身分を変えたのと同じ「国民そのものを作り直す」荒業を、トルコはやってのけた。
ところが——トルコは、それでも罠を抜けられなかった。いまも上位中所得のまま、高所得の閾値の手前で何十年も足踏みしている。世界銀行はその理由を、慢性的な高インフレのためと名指しで注記しているほどだ。
なぜか。私はここで長いあいだ考え込んだ。あれほど過激に国を作り直した国が、なぜ抜けられないのか。答えは、たぶんこうだ。トルコは、一度きりで凍ったのである。アタチュルクの革命は壮絶だったが、そのあとトルコは、同じ強度で国を作り直すことが、二度とできなかった。八〇年代にオザル首相が経済自由化を試み、二〇〇〇年代初頭にはEU加盟をめざした改革もあった。だが、そのどれも、途中で失速するか、あとで逆流した。軍のクーデター(一九六〇、七一、八〇年)は、国を新しく作り直すためではなく、アタチュルクが遺した古い秩序を凍ったまま守るために起きた。革命は一度きりで神格化され、更新されないまま化石になっていったのだ。
つまり、こういうことだと私は思う。国家の作り直しは、必要条件ではあっても、「一度やれば済む」ものではない。 一回の華々しい革命と、そのあとの長い停滞は、平気で両立してしまう。抜けるために本当に要るのは、劇的な作り直しを繰り返せる能力のほうなのだ。
そう考えたとき、私はもう一度、日本のことを思った。
日本は、三度、同じことをやった
前回、私はベトナムの末端統合を、明治の大合併(七万を超えた町村を一万五千ほどへ)になぞらえた。だが、日本はこの「末端を束ねる」動きを、実は三度やっているということだ。
明治の大合併(一八八〇年代末)は、七万超から一万五千へ。新しい国民国家を動かす単位を、ゼロから設計した「建国のための攻めの合併」。昭和の大合併(一九五〇年代)は、およそ一万から三千数百へ。戦後の新制度を担える規模を作る「再建の合併」。そして平成の大合併(一九九九〜二〇一〇年)は、三千二百三十二から千七百二十七へ。少子高齢化と財政難に耐えるための「守りの合併」だった。
さらに言えば、日本は合併だけを繰り返したのではない。明治維新、敗戦後の農地改革・財閥解体・新憲法、そして三度の大合併——国のかたちを、時代が変わるたびに、何度も作り直してきた。トルコが一度きりで凍ったのに対し、日本は繰り返した。ここに、抜けた国と抜けそこねた国の、いちばん深い分かれ目がある気がする。
その平成の大合併が、いまのベトナムを映す残酷な鏡になる。日本はベトナムとほぼ同じ規模の末端再編(三千超を千七百へ)を、十年余りかけてやった。強制ではない。市町村議会の議決を経て、合併協議会を立ち上げ、住民投票にかけた。国は「アメ」として合併特例債(費用の七割を国が肩代わりする借金)をぶら下げ、「ムチ」として地方交付税を削って、じわじわ追い込んだ。それでも、与党が掲げた「合併後は千自治体」という目標には届かなかった。
そして総務省は二〇一〇年、自ら総括文書を出して、四つの傷を認めている。周辺部となった旧市町村の活力が失われたこと。住民の声が届きにくくなったこと。住民サービスが低下したこと。そして、古い地名や、その土地の伝統・文化が失われたこと。ある県では合併市町の職員が二割も三割も減り、二〇一八年の西日本豪雨で、統合された市が人手不足で災害対応に苦しんだという話まである。合併の請求書は、その場では届かない。十年ほど経って、周辺部で、静かに届くのだ。
ここでベトナムに戻る。ベトナムは、この末端再編を、住民投票も、合併協議会も、十年の歳月もなしに、決議と号令で、数週間でやってのけた。明治の「攻め」の速度で、平成が十年と住民の同意をかけてやったことを、一気に。そして平成の日本が教えてくれるのは、こうだ。たとえ「正しい」再編でも、末端を削りすぎれば、国家が危機に応える力そのものが、周辺で痩せ細る。ベトナムは、その削り方を、日本よりずっと速く、ずっと深くやっている。請求書は、いつ、どこに届くのだろう。
ベトナムもまた、繰り返してきた国だ
ここまで来て、ようやく私は、自分がいちばん言いたかったことにたどり着く。
もし、抜けるための本当の条件が「作り直しを繰り返せる能力」なのだとしたら——ベトナムには、その前科がある。いまの大再編は、この国にとって初めてではないのだ。
一九八六年、ベトナムはドイモイに踏み切った。中国の改革開放とほぼ同じ、市場経済への大転換だ。あれが、この国の「一度目の作り直し」だった。二〇〇七年のWTO加盟と世界のサプライチェーンへの統合が、二度目。そしていま、二〇二五〜二六年の省庁・地方・憲法・税制の総ざらいが、三度目にあたる。ベトナムは、トルコのように一度きりで神格化して凍りつくのではなく、日本のように、時代が変わるたびに国のかたちを作り直してきた国なのだ。
だから、いまベトナムが賭けているのは、正確にはこう言い換えられる。「一度、劇的に作り直す」ことではない。「作り直し続けられる国」であることに賭けているのだ。トルコになるのか、日本になるのか。あの二週間の省の統合も、四十三日の憲法改正も、私の住所から消えた区の名前も、ぜんぶ、この一つの賭けの上に載っている。
賭けの中身
これはあくまで相関であって、因果は学問の世界でも決着していない。抜けた国の多くが、冷戦下でアメリカの都合から土地改革を後押しされた、という外部要因説も根強い。
第二に、ベトナムには、明治の武士や韓国・台湾の地主のような「解体すべき旧エリート」が、そもそもいない。社会主義体制が、とうにそれをならしてしまったからだ。だから「これは明治と同じだ」とは言えないし、ポーランドのようなEU型の外部の錨も、ベトナムは持たない。もし錨があるとすれば、CPTPPや世界のサプライチェーンへの深い統合が、その役割を部分的に果たすのかもしれない。
第三に、繰り返せることが、いつも善いとは限らない。速く、深く、繰り返し削れば、平成の日本が周辺部に残した傷が、ベトナムではもっと速く、もっと深く現れるかもしれない。断行力の強さは、そのまま副作用の強さでもある。
それでも、一つだけ、はっきりと異質なことがある。抜けた国々は、たいてい「勝った側が旧エリートを解体した」。ところがベトナムでは、倒すべき旧勢力がいて改革が起きたのではない。統治する側が、自ら進んで、自分の体を削っている。しかも、それを一度きりの神話にせず、四十年で三度、繰り返してきた。トルコが取れなかった道、マハティールが「盛る」ことはしても「削る」ことはしなかった道、そして日本が明治から平成まで通った道に、この国は張ったのだ。
百年後、この賭けがどう語られるのか。作り直し続けた「アジアのもう一つの奇跡」として教科書に載るのか、それとも、速すぎた再編が周辺に残した傷とともに語られるのか。あるいは——三度目のあとに、トルコのように凍りつくのか。それは、まだ誰にも分からない。
分からないまま、私はいま、その現場に、たまたま居合わせている。



