※本稿は2026年3月時点の法令・制度に基づく一般的な情報提供であり、個別の法的助言を構成するものではない。具体的な対応にあたっては専門家への相談を推奨する。
はじめに
海外でビジネスを行う以上、トラブルはゼロにはできない。取引先が代金を支払わない、品質クレームが発生した、合弁パートナーと経営方針が対立した──こうした紛争が起きたとき、あなたの会社は何に基づいて、どこで戦うのか。その答えは、契約書に書いてある。
日本国内であれば、契約書の最後に「東京地方裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とする」と書いておけばそれで済む。しかしベトナムでは、この「最後のページ」の設計を誤ると、取り返しのつかない事態に陥る。ベトナムの裁判所に訴訟を持ち込んだが、ベトナム語でしか審理してもらえない。判決が出るまで3年以上かかった。せっかく日本で勝訴判決を得たのに、ベトナムでは執行できない──こうした失敗は、実は珍しくない。
本稿では、ベトナムでの契約書における準拠法の選択と紛争解決条項の設計について、仲裁と訴訟の比較を中心に解説する。2025年にはベトナムの仲裁制度に画期的な改革があり、外国企業にとっての選択肢が大きく変わった。
第1章 準拠法の基本 ── 「ベトナム法でなければダメ」は誤解
準拠法選択の自由
ベトナム民法典2015(Law No. 91/2015/QH13)第683条は、外国要素を含む契約について、当事者が準拠法を自由に選択できることを明確に認めている。つまり、日本法人とベトナム法人が締結する契約について、日本法を準拠法とすることも、シンガポール法を準拠法とすることも、法律上は可能である。
「ベトナムで事業をするならベトナム法が必須」と思い込んでいる日本企業は少なくないが、これは誤解だ。
ただし、強制適用がある分野
準拠法選択の自由には例外がある。以下の分野では、ベトナム法の強制適用を免れることができない:
- 不動産関連:ベトナムの土地使用権、工場用地リースなどは、不動産の所在地法であるベトナム法が強制適用される
- 労働関連:ベトナムで就労する労働者との労働契約にはベトナム労働法が適用される
- 投資活動:投資法に基づく投資登録証明書(IRC)の取得や法人設立手続きにはベトナム法が適用される
- 消費者保護:ベトナムの消費者を相手方とする契約にはベトナム法の消費者保護規定が適用される
準拠法を定めなかった場合
契約書に準拠法の定めがない場合、民法典第683条第2項により「契約と最も密接な関連を有する国の法律」が適用される。ベトナム国内で履行される契約であれば、ベトナム法が適用される可能性が高い。
これは「お互いの力関係で決まる」ということでもある。準拠法を書かなかった場合、紛争が起きてから「どの国の法律で判断するか」という争点が追加され、余計な時間とコストがかかる。必ず明記しておくべきだ。
第2章 紛争解決の三つの選択肢
ベトナムでの契約紛争を解決する手段は、大きく分けて三つある。
選択肢1:VIAC仲裁
ベトナム国際仲裁センター(Vietnam International Arbitration Centre / VIAC)は、ベトナム商工会議所(VCCI)の下に設置された仲裁機関で、ベトナムで最も歴史と実績を持つ。
メリット:
- 審理期間は約12〜18ヶ月。裁判所の3〜5年と比較して圧倒的に速い
- 英語での審理が可能(外国企業にとって最大の利点の一つ)
- 外国人仲裁人を選任できる
- 手続きは非公開で、企業秘密が守られる
- 仲裁判断はニューヨーク条約に基づき170カ国以上で執行可能
- 仲裁判断は確定判断(上訴がない)
デメリット:
- 仲裁費用は裁判費用より高額(ただしSIAC等の国際仲裁機関よりは大幅に安い)
- 仲裁判断の取消を裁判所に申し立てられるリスクがある(後述の2025年改革で大幅に低減)
選択肢2:ベトナム裁判所での訴訟
メリット:
- 裁判費用自体は仲裁より安い
- 三審制で上訴の機会がある
- 裁判所の強制執行権限が直接行使される
デメリット:
- 審理はベトナム語のみ。すべての書面をベトナム語で提出しなければならない
- 審理期間は一般的に3〜5年
- 公開法廷のため、企業秘密の保護が困難
- 地方裁判所の場合、商事紛争の経験が限られている
- 外国企業に対する「ホームタウン・バイアス」が指摘されることがある
選択肢3:第三国仲裁(シンガポール等)
シンガポール国際仲裁センター(SIAC)など、中立的な第三国の仲裁機関を利用する方法。
メリット:
- 高い中立性と国際的な信頼
- 英語での手続きが確実
- 仲裁判断の質が安定している
デメリット:
- 仲裁費用がVIACの数倍になることがある
- ベトナム国内での執行には、ニューヨーク条約に基づく承認手続きが別途必要
- 暫定措置(資産保全等)をベトナムの裁判所に申し立てる場合に制限がある
第3章 なぜ「仲裁」が圧倒的に有利なのか
日本の判決はベトナムで執行できない
多くの日本企業が見落としている致命的な事実がある。日本の裁判所の確定判決は、ベトナムでは原則として執行できない。
日本とベトナムの間には、裁判所判決の相互承認・執行に関する二国間条約(司法共助条約)が締結されていない。したがって、たとえ日本の裁判所で勝訴判決を得ても、それをベトナムで執行するための法的な道筋がないのだ。
一方、仲裁判断であればニューヨーク条約に基づき、ベトナムの裁判所に承認・執行を申し立てることができる。この一点だけでも、日本企業にとって仲裁を選択する理由は十分にある。
ベトナム語の壁
裁判所での訴訟は、すべてがベトナム語で行われる。訴状、答弁書、証拠書類の翻訳、法廷での通訳──これらすべてにコストと時間がかかる上、微妙なニュアンスの誤訳が命取りになることもある。
VIACでの仲裁であれば、当事者の合意により英語で審理を行うことができ、外国人仲裁人も選任可能だ。日本企業にとって、言語のハンデなく対等に争える環境が整う。
3年待てるか?
ベトナムの裁判所で商事紛争を争う場合、一審判決まで1〜2年、控訴審でさらに1〜2年、場合によっては監督審まで含めて5年以上かかることがある。VIACであれば12〜18ヶ月で仲裁判断が得られる。ビジネスのスピード感を考えれば、この差は決定的だ。
第4章 2025年の画期的改革 ── 仲裁制度が変わった
2025年はベトナムの仲裁制度にとって画期的な年となった。
仲裁判断取消の管轄集中(2025年7月施行)
これまで、仲裁判断の取消申立ては省級の人民裁判所が管轄していた。問題は、地方の裁判所の中には商事仲裁の経験がほとんどない裁判官が取消の判断を行うケースがあったことだ。外国企業が仲裁で勝っても、相手方が地元の裁判所に取消を申し立て、経験不足の裁判官が取消を認めてしまう──これは外国企業にとって大きなリスクだった。
2025年7月1日施行の改革により、仲裁判断取消の管轄権は一般の省級裁判所から剥奪され、ハノイ、ダナン、ホーチミンの専門人民裁判所に集中された。商事紛争の経験豊富な裁判官が審査を行うことになり、「ホームタウン・バイアス」や経験不足による不当な取消のリスクが大幅に低減された。
IFC仲裁センターの設立(Resolution No. 222/2025)
国会決議No. 222/2025により、ベトナム初の専用紛争解決フォーラムとして国際金融センター(IFC)仲裁センターが設立された。ホーチミン市とダナンに拠点を置く「一センター二拠点」モデルで、当事者がベトナム裁判所への不服申立権を放棄する合意が尊重されるという、画期的な仕組みが導入される。
これにより、外国投資家が長年懸念してきた「仲裁で勝っても裁判所で取り消される」リスクがさらに低減される見込みだ。
裁判所再編
2025年7月には全国の区級裁判所が廃止され、355の地域裁判所が新たに設立された。仲裁関連事項のほぼすべてがこれらの裁判所に管轄されることになった。
土地紛争への仲裁の拡大
土地法2024(2025年1月施行)により、これまで裁判所が独占的に管轄していた土地使用権に関する紛争について、仲裁センターでの解決が認められるようになった。工場用地のリース契約に関する紛争にも適用可能であり、外資企業にとって重要な変化だ。
第5章 契約類型別の推奨設計
すべての契約に同じ紛争解決条項を入れればよいわけではない。契約の性質に応じた設計が必要だ。
日本親会社との取引契約(技術ライセンス、ロイヤルティ等)
- 準拠法:日本法が自然だが、移転価格税制の観点から「独立当事者間取引」の外観を持たせるため、中立的な法域の法律を選択する企業もある
- 紛争解決:VIAC仲裁(英語)が推奨。親子会社間であっても、税務当局や第三者に対して「公正な紛争解決手段を備えた契約」であることを示す意味がある
ベトナム企業との売買契約・サービス契約
- 準拠法:ベトナム法が現実的(履行地がベトナム)
- 紛争解決:VIAC仲裁。英語またはベトナム語は取引の規模と相手方に応じて判断
工業団地とのリース契約
- 準拠法:ベトナム法(不動産関連は強制適用)
- 紛争解決:VIAC仲裁が理想だが、工業団地側が自社標準フォームを使用する場合、裁判所管轄の条項が入っていることが多い。交渉の余地があれば仲裁条項への変更を要請すべき
建設請負契約(工場建設)
- 準拠法:ベトナム法
- 紛争解決:VIAC仲裁。FIDIC契約条件を使用する場合、紛争裁定委員会(DAB)→仲裁の二段階方式が一般的
労働契約
- 準拠法:ベトナム労働法(強制適用、選択の余地なし)
- 紛争解決:ベトナム裁判所。労働紛争は仲裁の対象外とされるケースが多い
日本との違い ── 「日本の常識が通じない」ポイント
- 「日本で勝てばベトナムでも勝てる」は幻想
日本の裁判所で勝訴判決を得ても、ベトナムでの執行手段がない。日越間に司法共助条約がないためだ。仲裁判断であればニューヨーク条約で執行可能。この違いを理解していないと、「勝訴したのに回収できない」という最悪の結果になる。
- 仲裁合意の拘束力
日本では仲裁条項があっても裁判所に訴訟を提起できる場合があるが、ベトナムでは有効な仲裁合意がある場合、裁判所は原則として管轄権を否定する(商事仲裁法2010第6条)。仲裁条項を入れた以上、裁判所という選択肢はなくなると理解しておく必要がある。
- 仲裁判断の安定性
日本では仲裁判断の取消は極めて稀だが、ベトナムでは過去に地方裁判所が不当に取消を認めた事例がある。2025年の改革で状況は大幅に改善されたが、日本と同じ安定性を期待するのは時期尚早だ。
- 裁判所の商事紛争処理能力
日本の裁判所は商事紛争の処理に十分な専門性を持つが、ベトナムの裁判所、特に地方の裁判所は商事紛争の経験にばらつきがある。これが仲裁を推奨する大きな理由の一つだ。
ここが変わった(2025〜2026年)

まとめ:やっておくべきこと
すべての主要契約書にVIAC仲裁条項を入れる。 「裁判所管轄」のままにしておくことは、外国企業にとって不利益しかない
VIAC公式サイトからモデル仲裁条項を入手し、社内の契約テンプレートに組み込む。 仲裁条項の文言が不適切だと、仲裁合意の有効性自体が争われるリスクがある
契約類型ごとに準拠法を整理する。 すべてをベトナム法にする必要はない。日本親会社との取引には日本法を選択することも検討すべき
工業団地のリース契約の紛争解決条項を必ず確認する。 工業団地側の標準フォームには裁判所管轄の条項が入っていることが多い。仲裁条項への変更を交渉する価値がある
仲裁人の人数・言語・仲裁地を契約書に明記する。 これらを定めておかないと、紛争発生後に追加の争点になる
日本の判決はベトナムで執行できないことを社内(特に法務部門)に周知する。 日本の裁判所での勝訴判決に頼る戦略は成り立たない
IFC仲裁センターの運用開始を注視する。 将来的に最も有利な紛争解決手段となる可能性がある
ベトナムの国際商事紛争に精通した法律事務所を早期に選定し、契約書ドラフトのレビューを依頼する。 紛争解決条項は「紛争が起きてから考える」ものではなく、契約締結時に設計するものだ


