はじめに
前回の記事で、ベトナムはフランスの植民地だったということを書きましたが、なぜフランスはベトナムの植民地だったのか?彼らはどうやってきたのか?なぜベトナムはフランスの植民地になり、日本はならなかったのか。ということが気になりました。
日本では豊臣秀吉の時代から「ヨーロッパ人はヤバい」という危機感があり、江戸時代には鎖国・禁教という形で対策を取った。ドラマ「Shogun」では漂着したイギリス人の話しを少し聞いただけで、徳川家康をモデルにした主人公が一発で危機感を抱いたシーンがあるが、実際の家康もそうだったのだろうと想像する。ではベトナムはそうではなかったのか? 実は、ベトナムもやっていた。禁教もした。鎖国的な方向性も試みた。それでも植民地化された。
この記事では、16世紀から19世紀にかけて日本とベトナムが辿った道を並行的に追い、両国の運命を分けた構造的な要因を探る。結論を先に言えば、最大の分岐点は「禁教の200年の時差」にある。そして日本の独立維持は「当然の結果」ではなく、際どい綱渡りの連続だった。
時系列対比表:日本とベトナム、16世紀〜19世紀
まず両国で起きたことを並べてみる。こうすると、驚くほど似たパターンの中に、決定的な違いが浮かび上がる。

第一章 ヨーロッパを「利用した」日本と、ヨーロッパに「利用された」ベトナム
信長と秀吉——「モノは買うがヒトは借りない」原則
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が持ち込んだ2挺の火縄銃は、日本史の転換点となった。刀鍛冶の八板金兵衛がわずか1〜2年で複製に成功し、生産拠点は種子島から堺、根来、国友へと爆発的に広がった。戦国末期には日本全体の鉄砲保有数が推定50万挺に達した。同時期のイギリスの総鉄砲数が約6,000挺だったことを考えると、日本は文字通り世界最大の銃器保有国だった。
織田信長はこの軍事革命を最も巧みに利用した。宣教師ルイス・フロイスとの友好関係を通じて南蛮貿易の利益を確保し、鉄砲運用に不可欠な硝石の流通を押さえた。キリスト教の存在は石山本願寺や比叡山といった仏教勢力の相対化にも利用された。地球儀を見て「理にかなっている」と即座に地球球体説を理解したという逸話が示すように、信長は宣教師を世界情報の窓口として積極的に活用した。
決定的に重要なのは、信長も秀吉も「モノ(鉄砲・硝石・生糸)」は買ったが、「ヒト(兵隊・軍事顧問)」を組織的に借りなかったという事実である。
輸入した鉄砲を自力で国産化し、独自の戦術を開発した。秀吉に至っては、逆にフィリピン総督に「服従せねば征伐する」と最後通牒を送るほどの自信を持っていた。
秀吉の1587年バテレン追放令の背景には、大村純忠による長崎のイエズス会寄進という衝撃的な事実があった。大村純忠は1580年に長崎と茂木を裁判権・統治権・入港税収入を含めてイエズス会に永久寄進した。日本の国土の一部が外国の宗教団体の主権下に入ったのである。さらに、ポルトガル商人による日本人奴隷貿易が秀吉を激怒させた。
続く徳川家康はさらに巧妙だった。キリスト教の布教を伴わないプロテスタント国のオランダやイギリスの代表者(ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス)を外交顧問として重用し、カトリック国を排除しつつ西洋の軍事・科学技術と国際情勢の情報を収集する高度な切り分けを行った。スペイン・ポルトガルが中南米やフィリピンで何をやったか、宣教師が征服の先兵であるという構図を、ヨーロッパ内部の宗教対立を利用して直接入手したのだ。
鄭阮内戦——なぜベトナムは250年も分裂したのか
同時期のベトナムでは、日本の戦国時代に匹敵する——いや、それ以上に長く、複雑な内戦が進行していた。この内戦の構造を理解することが、ベトナムがフランスに植民地化された経緯を理解する鍵になる。
発端は日本でいう「応仁の乱」的な構造だ。黎朝(レ朝)は15世紀後半にベトナム史上最も輝かしい時代を迎えたが、1520年代には弱い皇帝が続いて内乱状態に陥った。1527年に武将の莫登庸(マック・ダン・ズン)が権力を簒奪し、莫朝を建てた。これに対抗して黎朝復興を掲げたのが、阮(グエン)氏と鄭(チン)氏の同盟である。この二つの氏族はもともと血縁関係にあり、阮金(グエン・キム)の娘が鄭検(チン・キエム)に嫁いでいた。義理の父子・兄弟の間柄で、共に莫氏と戦う同盟軍だったのだ。
ところが1545年、同盟の性格が一変する。阮金が莫氏の刺客に暗殺され、本来なら長男の阮汪が後を継ぐべきところ、義婿の鄭検が阮汪を殺害して軍の実権を奪った。日本でいえば、織田信長が死んだ後に秀吉が織田家を乗っ取ったのに似ているが、もっと血なまぐさい。父と兄を殺された次男の阮潢(グエン・ホアン)は、1558年にベトナム南部の辺境——現在のフエ周辺——に送られた。ここで55年間にわたって南部を統治し、じわじわと独立基盤を固めていく。
1600年、阮潢は正式に北部の鄭氏の宮廷と断交した。1620年、新しい阮氏の当主・阮福源がハノイの宮廷への納税を公式に拒否。鄭氏が服従を要求し、阮氏が拒否する——この緊張が7年間続き、1627年についに全面戦争が勃発した。
日本に例えるなら、「形式上は足利将軍(=黎朝皇帝)が存在するが、実権は管領(=鄭氏)が握っている。西国の大大名(=阮氏)が『将軍の命令とは認めない、鄭が勝手にやっているだけだ』と反旗を翻した」という構図だ。
ではなぜ、この戦争は45年も終わらなかったのか。
第一に、地理である。鄭氏と阮氏の境界付近は、山がほぼ海まで迫っていて大軍が展開できる平地が極端に狭かった。現在のクアンビン省あたり——実は20世紀のベトナム戦争で南北を分けた北緯17度線とほぼ同じ場所だ。ベトナムはS字型の細長い国だが、中部に「くびれ」があり、ここが天然の防衛線として機能した。
第二に、阮氏の防御戦略が非常に巧妙だった。阮氏の軍事参謀ダオ・ズイ・トゥは、ドンホイに全長約10km、高さ約6mの防壁を築いた。さらに阮氏はポルトガル人技術者の助けを借りて先進的な大砲を自国で生産し、防壁と大砲の組み合わせで鄭氏の大軍を何度も撃退した。鄭氏は20万の兵、500頭の戦象、500隻の軍船を動員して攻めたが、阮氏のポルトガル製大砲が象を殺し、パニックになった象が自軍の兵を踏み潰すという惨事で敗退した。
第三に、双方がヨーロッパの異なる勢力から武器を調達し、軍拡競争が固定化したことだ。阮氏はポルトガルと結び、鄭氏はオランダ(VOC)と結んだ。ここでベトナム史における致命的なパターンが確立される——内戦の両陣営がそれぞれヨーロッパの武器と技術を内戦に持ち込む構図だ。
ただし、この時期のベトナムが軍事的に脆弱だったわけではない。1643年、鄭氏を支援するオランダが3隻の戦艦で阮氏領のダナン付近に攻め込んだが、阮氏の小型船団に逆に撃破された。オランダの司令官ピーター・ベックは旗艦の爆発で戦死し、残りの船は北方に逃走した。ベトナムはヨーロッパの正規艦隊を退けるほどの軍事力を持っていたのだ。
結局、1671年に鄭氏が8万の大軍による最後の大攻勢をかけたが、これも失敗。1673年に清朝(康熙帝)の仲介でリン川を境界として停戦が成立した。以後100年間、表向きは平和だったが、実質的にベトナムは南北に分裂したままだった。
日本の戦国時代も長かったが、最終的に信長→秀吉→家康の3代で統一が完成した。ベトナムではなぜそうならなかったか。日本では一方が圧倒的に強くなるメカニズムが働いた(鉄砲の集中運用、経済力の集中、同盟の組み替え)のに対し、ベトナムでは地形のくびれが天然の「38度線」として機能し、ヨーロッパからの武器調達が双方の軍事力を底上げして膠着状態を強化してしまった。この「統一の遅れ」こそが、のちにフランスを招き入れる構造的原因となる。
同時期にベトナムで活動したアレクサンドル・ド・ロードらフランス人宣教師の布教活動も、内戦の混乱に乗じて進んだ。50年間で32万人以上がキリスト教に改宗。ド・ロードが1649年にローマで行った布教資金増額の嘆願は、1659年のパリ外国宣教会設立につながった。この組織こそが、後にピニョー・ド・ベエンヌを輩出し、フランスのベトナム介入の直接的な導線となる。
日本とベトナムの初期対応の構造的な違いは明確だ。日本の統治者たちはヨーロッパの武器技術を吸収しつつ人的依存を排除し、最終的にはキリスト教勢力そのものを排除する力を持っていた。ベトナムの二つの政権は、内戦という切迫した必要のために、ヨーロッパの武器と人的関与を受け入れざるを得なかった。そして内戦が長すぎたために、宣教師が根を張る時間をも与えてしまった。
西山党の嵐——ベトナム版「下剋上」
18世紀末、この構造的差異が決定的な形で顕在化する。きっかけは、ベトナム史上最もドラマチックな農民反乱だった。
1673年の停戦後、南部の広南阮氏の統治は100年の間に腐敗の極みに達していた。銅銭の不足による物価の高騰、1752年と1774年の大飢饉、カンボジアへの度重なる遠征による財政の破綻、土地を奪われた農民の困窮——こうした不満がついに爆発した。
1771年、ベトナム中部の西山(タイソン)地方で阮岳(グエン・ニャック)、阮恵(グエン・フエ)、阮侶(グエン・リュ)の三兄弟が蜂起した。彼らの姓は「阮」だが、後の阮朝を建てた阮福映の阮氏とは全く別の家系である(ベトナムでは阮姓は最も多い姓で、人口の約40%を占める)。「腐敗した権力者から奪い、貧しい者に分ける」というロビン・フッド的な理念を掲げた西山党には、高地の少数民族、チャム人(かつてのチャンパー王国の末裔)、ベトナム人農民、さらには華僑の商人まで、不満を抱えた多様な集団が合流した。
西山三兄弟が成し遂げたことは驚異的だった。まず南部の広南阮氏を倒し(1776-77年)、次に北部の鄭氏を倒し(1786年)、さらには「ベトナムを取り戻す」と介入してきた清朝の大軍20万を、1789年の棟多(ドンダー)の戦いで撃破した。三兄弟の中でも弟の阮恵(光中帝)は軍事的天才と呼ばれ、テト(旧正月)の奇襲で清軍を壊滅させたこの戦いは、ベトナム史上最も有名な戦闘のひとつだ。ハノイにドンダー通りがあるのはこの戦いに由来する。
西山党は、約250年続いたベトナムの南北分裂を武力で終わらせ、外国(清朝)の侵略まで撃退した——一時的にはベトナム統一を成し遂げた勢力だった。しかし、三兄弟が国を3つに分割統治して互いに対立し始めたこと、1792年に軍事的天才の阮恵が39歳で急死したこと、農民軍ゆえに安定した行政を築く能力に限界があったことが重なり、西山朝は急速に弱体化していく。
阮福映——一族を皆殺しにされた15歳の生存者
そして、この西山党の嵐の中から、ベトナムの運命を決定づける一人の人物が現れる。阮福映(グエン・フック・アイン、後の嘉隆帝)である。
阮福映は、西山党に滅ぼされた南部・広南阮氏の一族の生き残りだった。1777年、西山軍が阮氏一族をほぼ皆殺しにした。このとき15歳だった阮福映だけが奇跡的に逃げ延びた。以後、メコンデルタの沼沢地やカンボジア、シャム(タイ)にまで逃亡しながら、一族の仇を討ち、失われた王国を取り戻すための戦いを20年以上にわたって続ける。
この壮絶な逃亡生活の中で、阮福映を匿い、支え続けたのがフランス人宣教師ピニョー・ド・ベエンヌ司教だった。パリ外国宣教会の聖職者であるピニョーにとって、阮福映を支援することはベトナムにおけるカトリック布教の保護者を得ることを意味した。阮福映にとっては、一族を皆殺しにした西山朝を倒すための唯一の外部支援だった。互いの利害が一致した、しかし非対称な取引がここで始まる。
ピニョーは阮福映の幼い息子・阮福景を連れてフランスに渡り、1787年11月21日、ルイ16世との間でヴェルサイユ条約を締結した。フランスはフリゲート艦4隻と完全装備の兵士1,650名を提供し、見返りにベトナムはコンダオ島の割譲とダナン港の租界・独占的通商権を約束した。
フランス革命前夜の財政難で正規軍の派遣は実現しなかったが、ピニョーは私費で義勇兵を募集し、フランス海軍士官やヴォーバン様式の要塞建築家を連れてベトナムに渡った。最盛期でもフランス人は将校約14名・兵士約80名に過ぎなかったが、その影響は絶大だった。2隻のヨーロッパ式軍艦と15隻のフリゲートを建造し、サイゴン城塞を設計し、600名の兵をヨーロッパ式に訓練した。
1802年、阮福映はついに西山朝を倒してベトナム全土を統一し、嘉隆帝として即位した。15歳で一族を失った少年が、25年の戦いの末に皇帝となった。これが阮朝(1802-1945年)の始まりである。
日本に無理やり例えるなら、阮福映は「一族を皆殺しにされた後に復讐を果たして天下を統一した人物」であり、徳川家康が今川家の人質時代を経て天下を取ったのと少し似ている。しかし決定的に違うのは、家康は外国の力を借りなかったのに対し、阮福映はフランスの「ヒト」を招き入れ、「領土」を約束してしまったことだ。
日本の統治者は「モノ」を買って「ヒト」を排除した。阮福映は「ヒト」を招き入れ、「領土」を約束した。この判断は、一族を皆殺しにされ、20年以上逃亡生活を続けた者として生存そのものがかかった状況下では合理的だったかもしれない。しかし1787年の条約は、後のフランス侵略に不可欠な前提条件を提供した。
嘉隆帝として即位した阮福映は、その後フランスと距離を置き、儒教的な中国モデルに基づく統治を選択した。「ヨーロッパ人を尊重せよ、特にフランス人を敬え、しかし決して優位な地位を与えるな」と側近に戒めた。フランスへの恩義は認めつつも、領土を渡す約束は反故にしたのだ。しかしこの「恩知らず」がフランス側に記憶され、パンドラの箱は既に開いていた。この条約は1847年にフランスがダナン引き渡しを要求した際の根拠となり、1857年にナポレオン3世が侵攻を決定した際の口実の一つとなった。
フエに行く機会があれば、阮朝の王宮はまさにこの阮福映が建国した王朝の宮殿だ。ベトナム戦争で大きく破壊されたが修復が進んでおり、この歴史を知った上で見ると全く違って見えるはずだ。
「禁教の200年の時差」という構造的宿命
日本とベトナムの命運を最も根本的に分けた要因は、禁教政策の時期の違いだった。
日本は1613年に全国的禁教令を発布し、1639年に鎖国を完成させた。この時点でのヨーロッパの海軍力は、人口2,200万人・鉄砲50万挺を擁する軍事大国を海を越えて征服する能力を持っていなかった。イエズス会巡察師ヴァリニャーノも日本征服の困難さを本国に報告し、フィリピン臨時総督ビベロも「日本人は長銃を非常に巧みに使う。メキシコの原住民のようにはいかない」と認めている。
ベトナムの阮朝が本格的な禁教に踏み切ったのは、明命帝の治世(1820〜1841年)である。1833年の全国的禁教令以降、130人以上の宣教師・司祭が処刑され、嗣徳帝の治世にはヨーロッパ人宣教師27名、ベトナム人聖職者300名、信者約3万名が犠牲となった。
19世紀のフランスは17世紀のポルトガルやスペインとは根本的に異なる存在だった。産業革命を経た蒸気軍艦、ライフル銃、近代砲兵を擁するフランスにとって、宣教師迫害は軍事介入の格好の口実だった。日本が同じ政策で独立を守った17世紀と、ベトナムがその政策で侵略の口実を与えた19世紀——この200年の時差が命運を分けた。
1858年、ナポレオン3世はカトリック教徒保護を名目にリゴー・ド・ジュヌイイ提督率いる14隻の軍艦と約3,000名の遠征軍をダナンに送り込んだ。ベトナム軍は勇敢に抵抗し、熱帯の気候もフランス軍を苦しめたが、蒸気船と近代砲兵には抗しきれなかった。1862年のサイゴン条約で南部3省を割譲、1887年には仏領インドシナ連邦が成立した。
第二章 日本が「ベトナム化」しかけた三つの瞬間
第一の危機:キリシタン大名が九州を制していた世界線
日本の独立維持を「当然の結果」として語ることは、歴史の実態を見誤る。1553年から1620年の間に、公式に洗礼を受けた大名は86名に上った。キリシタン信徒数は最盛期で30万〜75万人と推計される。当時の日本総人口1,200〜2,200万人に対して、これは無視できない数字だ。
最も危険な瞬間は1585年に訪れた。イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョは、フィリピンのイエズス会に書簡を送り、マニラ総督に対して「兵隊・弾薬・大砲を搭載した3、4隻のフリゲート船」の日本派遣を要請した。コエリョは自らフスタ船(武装ガレー船)を建造し、長崎を軍事要塞化し、1584年の島原の戦いでは軍事介入すらした。
これは単なる宣教師の暴走ではない。もしこの構想が実現していれば、フィリピン総督府の軍事力とキリシタン大名の武力が結合し、九州に事実上のカトリック軍事同盟が成立する可能性があった。上司のヴァリニャーノがコエリョの計画を「幻想的な妄想」として中止に追い込んだことは、日本にとって幸運だった。
仮に1600年の関ヶ原の戦いで、キリシタン大名・小西行長ら西軍が勝利していたら、キリシタン勢力が政治の中枢に入り、ヨーロッパ勢力との関係はさらに深まっただろう。当時の日本の軍事力を考えると直接的な植民地化は困難だったとする見方が学術的には有力だが、徳川家康の勝利と禁教政策の徹底がなければ、日本の歴史は大きく異なっていた可能性は否定できない。
第二の危機:幕末——英仏代理戦争の一歩手前
日本が最もベトナムに近い状況に置かれたのは、幕末の1860年代である。
フランス公使レオン・ロッシュは幕府を全面的に支援し、横須賀製鉄所の建設、フランス軍事顧問団(団長シャノワーヌ大尉以下15名)の派遣、600万ドルの借款(蝦夷地を担保)など、フランスの国力を挙げた支援体制を構築した。フランス側の動機には、自国の絹織物産業を救うため、微粒子病に強い日本の蚕種と生糸を安定的に確保するという経済的思惑もあった。
一方、イギリス公使ハリー・パークスは薩長を支持し、スコットランド商人トーマス・グラバーを通じて大量の武器と軍艦を供給した。
フランスが幕府を、イギリスが薩長を、それぞれ軍事的に支援する——この構図は、まさにベトナムで鄭氏がオランダを、阮氏がポルトガルを頼ったパターンの再現だった。
もし慶喜がロッシュの勧めを受け入れて抗戦を続けていたら、日本は英仏の代理戦争の舞台と化し、内戦が長期化し、領土の割譲や租界の拡大を迫られ、最悪の場合はベトナムと同じ道をたどった可能性がある。
第三の危機回避:慶喜の「ノー」と江戸城無血開城
日本がこの危機を回避できた要因は複合的だった。
第一に、徳川慶喜の恭順。 慶喜はフランスの支援を明確に拒否し、上野寛永寺に謹慎した。この判断は、内戦の長期化と列強介入を防いだ。
第二に、列強6カ国の局外中立宣言(1868年1月25日)。 これにより、いずれの側への武器供与、軍事顧問派遣が国際法的に禁止され、フランスが幕府を支援し続けることが不可能になった。
第三に、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城。 人口100万人超の世界最大級の都市を戦火から救ったこの交渉は、列強に介入の口実を与えなかった。無血開城は「美談」である以前に、都市戦による国家崩壊と列強介入の誘発を避けた安全保障上の合理性だった。
第四に、列強間の相互牽制。 イギリスはフランスの単独支配を、フランスはイギリスの覇権拡大を、双方がロシアの南下を警戒していた。さらにイギリスはインド大反乱、アメリカは南北戦争後の混乱期にあり、各列強が世界各地で多面的な対外問題を抱えていた。
戊辰戦争はわずか約1年半で終結し、その後2年で版籍奉還、さらに2年で廃藩置県が実現した。この驚異的なスピードの政治変革が、列強に介入の隙を与えなかった。
第三章 ベトナムの「もう一つの明治維新」はなぜ実現しなかったのか
阮長祚——時代に先駆けすぎた改革者
ベトナムが「何もしなかった」という認識は完全に誤りである。阮朝の中にも、明治維新に匹敵する改革構想を持つ人物がいた。その筆頭が阮長祚(グエン・チュオン・ト、1830-1871年)である。
乂安省のカトリック教徒の家庭に生まれた阮長祚は、儒学の教養に優れながらもカトリック教徒であったため科挙の受験資格を剥奪されていた。パリ外国宣教会のフランス人宣教師の下でフランス語・ラテン語・西洋科学を学び、香港やペナンで西洋の新聞・書籍に接触した。歴史家マーク・マクラウドは「これほど早い時期に東西両方の学問を徹底的に結合した他のベトナム人はいなかった」と評している。
1863年から死去する1871年までの8年間に、阮長祚は阮朝宮廷に約60の改革建白書を提出した。その内容は驚くほど包括的だった。
教育改革: 科挙制度を批判し「詩は花月を詠じるのみで、飢えた者の腹を満たすことはできない」「一編の詩が侵略者を退却させることは決してない」と断じ、自然科学・法律・機械学・外国語による実学教育への転換を訴えた。
法制度改革: 皇帝をも拘束する独立した司法機関の設置を提案し、「王であっても、官吏の承認なしに独断で人を裁くことはできない」という西洋型の法の支配を構想した。
外交改革: フランス一国への従属や無謀な対立を避け、世界列強と平等な関係を築き勢力均衡を図ることを提唱した。
軍事的行動: 1871年春には、普仏戦争でのフランス敗北を機にコーチシナのフランス陣地への反攻を進言し、自ら軍を率いることを志願した。
しかし、これらの提案はほぼ全て拒否された。
改革を阻んだ構造的障壁——明治維新との決定的な差
阮長祚の失敗は個人の能力の問題ではなく、構造的要因によるものだった。
「藩」がなかった。 日本の幕藩体制では302の藩が半ば独立して存在し、薩摩藩の集成館事業、佐賀藩のアームストロング砲製造など、各藩が独自に軍事近代化を試みる基盤があった。阮朝は中国の明清体制を忠実に模倣した中央集権国家であり、皇帝の承認なしにはいかなる改革も不可能だった。
「武士」がいなかった。 明治維新の原動力は軍事訓練を受けた下級武士層だった。彼らは藩校で教育を受け、蘭学にも接触し、軍事力・政治手腕・西洋知識を兼ね備えた「改革のエージェント」だった。ベトナムの支配エリートは科挙で選抜された儒学者官僚であり、文人であって武人ではなかった。阮長祚自身が批判したように、「食べるが耕さず、学ばないのに官になろうとし、判断力は限られているが傲慢さは際限がない」存在だった。
「二重権威」がなかった。 日本には天皇と将軍という二重の権威構造があった。「王政復古」という形式で将軍の権力を天皇に返し、天皇の名の下に改革を断行できた。阮朝では皇帝が政治権力と象徴的権威の両方を一身に体現しており、別の正統性の源泉に訴えて体制を変革する選択肢が構造的に存在しなかった。
「蘭学200年」がなかった。 日本は鎖国下でも出島を通じて西洋科学の知識を継続的に吸収し、1774年の『解体新書』をはじめとする膨大な翻訳・研究の蓄積があった。幕末の識字率は男性約50%、女性約20%に達していた。ベトナムにはこれに匹敵する西洋知識の体系的な蓄積経路がなかった。
嗣徳帝——「無能」ではなく「詰んでいた」
嗣徳帝(在位1847-1883年)は36年にわたり阮朝を統治した最長在位の君主であり、優れた儒学者・詩人だった。必ずしもフランスの脅威を認識していなかったわけではない。1881年にはホイートンの『万国公法』を学校に配布しており、国際情勢への関心は示していた。
しかし、1862年のサイゴン条約で南部3省を失い、2,000万メキシコドルの賠償金を課され、1867年には南部全6省を失った。ベトナム最大の穀倉地帯と商業拠点を奪われたことで、近代化投資の経済的基盤は壊滅的に損なわれていた。
嗣徳帝は宗主国・清朝に援軍を要請し、清軍約20万人が北部ベトナムに進駐した。しかし清仏戦争で清朝は最終的にベトナム宗主権を放棄した。清朝にとって日本の朝鮮進出の方がフランスより大きな脅威であり、対仏和平を優先したのである。
晩年、嗣徳帝は「仰いでも俯いても顔向けできず、生きて面目なく、死んでも目を閉じることができない」と深い自責を表明した。嗣徳帝を「無能」と断じるのは歴史的に公平ではない。彼は構造的に「詰んでいた」のである。
東遊運動——「日本のようになりたい」というベトナム人の夢
植民地化された後、ベトナムの知識人が日本に学ぼうとした東遊運動(ドンズー運動)は、「ベトナム人自身が日本との構造的違いを認識していた」ことの最も雄弁な証拠である。
1905年の日露戦争で日本がロシアに勝利したことは、「有色人種がヨーロッパ列強に勝てる」ことを証明し、ベトナムの知識人に衝撃を与えた。ファン・ボイ・チャウは1905年に秘密裏に日本に渡航し、犬養毅や大隈重信と面会した。犬養は「最も急務なのは人材育成であり武装蜂起ではない」と助言し、ベトナム人青年の日本留学が組織された。留学生数はピーク時に約200名に達した。
しかし1907年、パリで日仏協約が締結された。日本はフランスの仏印における地位を承認し、ベトナム独立運動の取り締まりに同意した。日本にとってはパリでの借款調達が優先事項だった。1908-1909年にかけて留学生は追放され、運動は崩壊した。
ファン・ボイ・チャウは晩年、「私の歴史は全くの失敗の歴史である」と述懐した。東遊運動の挫折は、ベトナムの独立運動が、希望の星として仰ぎ見た当の日本政府によって封じ込められるという悲劇的な結末を迎えたことを意味する。
第四章 「もし〜だったら」——歴史の分岐点を仮想する
シナリオ1:もし戊辰戦争が長期化していたら
これが最もリアリスティックな「もし」である。慶喜が恭順を拒否し、東北まで泥沼のゲリラ戦が数年続いていた場合、新政府はイギリスへの借款に完全依存し、幕府残党はフランスへ横須賀や蝦夷地の租借権を条件に正規軍の派兵を要請していた可能性が高い。日本はイギリスの影響圏(西日本)とフランスの影響圏(東日本)に分割され、「極東のバルカン半島」として列強の代理戦争の主戦場になっていたかもしれない。
シナリオ2:もし阮福映が1787年にフランスの介入を拒絶していたら
阮福映がヴェルサイユ条約を結ばず、自力で西山朝と戦っていた場合、内戦はさらに長期化し国土は荒廃しただろう。しかしフランスに「領土割譲の約束」という介入の口実を与えることはなかった。隣国のタイがイギリスとフランスの緩衝国として独立を保ったように、ベトナムも清朝とフランスの緩衝地帯として主権を維持する外交的余地を残せた可能性がある。ただし帝国主義の波を完全に防げたとは限らない。
シナリオ3:もし嗣徳帝が阮長祚の改革案を受け入れていたら
1860年代に嗣徳帝が保守派の反対を押し切り、阮長祚を抜擢して軍事・教育の近代化に着手していたらどうなっていたか。当時のベトナム社会における商業資本の未発達や思想の硬直性を考慮すると、急進的改革は宮廷内のクーデターや地方の儒教知識人による反乱を引き起こした可能性が高い。阮長祚の改革構想が明治維新に匹敵する内容であっただけに、その不可能性はより一層の悲劇性を帯びる。
結論:日本が例外だったのか、ベトナムが不運だったのか
結論を先に言えば、日本が例外だった。
19世紀の世界地図を広げれば、アジア・アフリカのほぼ全域がヨーロッパ列強の植民地か半植民地となっていた。東南アジアではビルマがイギリスに、インドネシアがオランダに、フィリピンがスペインに支配され、タイだけが英仏の緩衝国として辛うじて独立を保った。ベトナムのフランス植民地化は「不運」というよりも「一般的なパターン」だった。独立を維持した日本の方が圧倒的な例外なのである。
しかし、その「例外」は偶然の産物ではなく、複数の構造的要因の複合的作用の結果だった。
第一に、島国という地理的防壁。 海を越えた大規模侵攻の困難さは、元寇以来証明されていた。
第二に、禁教の時期。 ヨーロッパが弱い17世紀に禁教・鎖国を完成させた。
第三に、戦国時代に鍛えられた軍事力。 世界最大の銃器保有国であった事実は、ヨーロッパ側の征服意欲を最初から削いだ。
第四に、蘭学200年の知的蓄積。 高い識字率が明治維新後の急速な近代化を可能にした。
第五に、分権的な藩体制。 改革の実験場を提供し、武士階級という軍事的知識人層が改革の担い手となった。
第六に、列強間の相互牽制。 多極的な国際環境が一国による植民地化を難しくした。
ベトナムにはこれらの条件がほぼ全て欠けていた。しかし、阮長祚のような先見の明ある改革者がいても、改革を実行するための「武器」——藩のような独立基盤、武士のような軍事的知識人層、蘭学のような知的土壌——がなかった。
最後に忘れてはならないのは、ベトナムは植民地化された後も抵抗を止めなかったということだ。ファン・ボイ・チャウの東遊運動は、日本をモデルとした独立回復の試みだった。その運動が日本政府の帝国主義的利害計算によって潰されたという事実は、「日本の成功」と「ベトナムの失敗」が実は同じ帝国主義的世界秩序の表裏であったことを示している。日本は帝国主義のゲームのルールを学んでプレイヤーとなり、ベトナムはそのゲームの駒にされた。この違いを「優劣」で語ることは、歴史に対する不誠実である。
ベトナムに長く住む者として思うのは、この歴史を「ベトナムが遅れていたから」ではなく、「同じように試行錯誤し、改革も模索したが、襲ってきた外圧の性質と時代が違い、内戦の条件が違った」と理解することの大切さだ。構造的条件の違いを直視することこそが、両国の歴史から学べる最大の教訓だろう。



