子供の日本語能力を維持・向上させるため、我が家では長らく絵本の読み聞かせを習慣にしていました。しかし、手持ちの日本語絵本は読み尽くしてしまい、最近は新しい本を補充できないまま、なんとなくその習慣が途絶えてしまっていました。
「これではいけない」
そう思った私がふと思いついたのが、こんな作戦です。
「そうだ、現地のベトナム語の絵本を買ってこよう。妻にはベトナム語で読んでもらい、私にはAIを使って日本語に翻訳させたバージョンを読ませる。これなら一冊で二度おいしいし、子供たちの語学力もバランスよく伸びるはずだ」
早速今日、ベトナム語の学校の近くにある本屋へ足を運びました。色とりどりの表紙が並ぶ棚から、娘と息子に一冊の絵本を選び購入。そのままカフェでAIにその内容を翻訳させてみました。
「説教くさすぎる」
選んだのは、ある西洋風のキャラクターが描かれた「EQ(心の知能指数)」教育を謳う絵本でした。
物語の中で、姉が腕を怪我します。すると、周囲の関心と優先権はすべて姉に集中。一方で弟の行動はすべて「わがまま」だと断罪され、結論として「弟は姉のために我慢するべきだ」という理屈が展開されていたのです。
こんな絵本、恐ろしくて娘にも息子にも読ませられない。
我が家には6歳の娘と4歳の息子がいます。ただでさえ、年齢的にも姉の立場が強い時期です。もしこれを読ませれば、「怪我や病気をしたら全てが優先される特権が得られる」と娘が誤学習し、逆に弱めの立場にいる息子は「自分はさらに我慢を強いられる存在なんだ」という刷り込みを強化してしまう。
「ベトナムの絵本って、みんなこうなのか?」
あまりのショックに、翻訳作業をしてくれていたAIチャットにそのまま問いかけました。すると、AIからはこんな答えが返ってきました。
「鋭いご指摘ですね!まさにおっしゃる通りです。この本を読んで『理屈っぽい』『説教くさい』と感じるのは、日本人の感覚として非常に自然な反応だと思います。結論から言うと、**『ベトナムの子供向けの本(特にこの種の教育系)は、こういう“教訓・道徳”が直球で語られるものが非常に多い』**です」
「さすがですね!」という感じでいつも通りおだててくれるが、もっと深い、文化的な背景がありそうなので、ベトナムの児童書文化と教育市場について「Deep Research」を行いました。
そこに見えてきたのは、儒教的な伝統と、急速な経済成長、そしてそこに殴り込みをかけた「日本の絵本(Ehon)」が織りなす、極めて興味深い、そして少し歪な「教育のパラダイムシフト」でした。
下記はDeep Reserchの情報から
https://drive.google.com/file/d/1opN059Qv-raGqZf_JVQ5zPpjGXBmgR4q/view?usp=drive_link
第1章:「Tiên học lễ(先ず礼を学び)」の呪縛
なぜ、あのような「姉のために弟は我慢せよ」という絵本が、堂々と「EQ教育本」として売られているのか。その根源を探ると、ベトナムのすべての学校の黒板の上に掲げられている、あるスローガンに行き当たります。
「Tiên học lễ, hậu học văn(先ず礼を学び、後に文を学ぶ)」
これは単なる標語ではありません。ベトナム人の教育観を支配する絶対的なドグマ(教義)です。
起源は論語にありますが、ベトナムにおいて「礼(Lễ)」は、単なる礼儀作法を超え、「道徳」「従順さ」「社会的ヒエラルキーへの順応」を意味します。一方の「文(Văn)」は知識や才能です。
つまり、「勉強ができることよりも、まずは社会の序列に従い、道徳的に正しくあること(=従順であること)が絶対的に優先される」という価値観です。
児童文学における「構造的説教」
この思想が児童書に反映されるとどうなるか。
私が手にした絵本のように、「正解の行動」を示すことが物語の至上命題となります。
伝統的なベトナムの民話や童話の多くは、「善なる者(従順・親孝行)が報われ、悪なる者(わがまま・不誠実)が罰せられる」という、極めて明快な因果応報(カルマ)の構造を持っています。
そこには、子供の内面的な葛藤や、「なぜ弟は寂しかったのか?」といった心理的プロセスへの共感は入り込む余地がありません。「弟が我慢した=善」「文句を言った=悪」。この二元論こそが、伝統的な「教訓主義(Moral Didacticism)」の正体でした。
この文脈において、読書とは「楽しむもの」ではなく、「道徳を注入するための器」であり、「人格陶冶(とうや)のための手段」だったのです。
第2章:「スキル本」という名の現代版教訓
しかし、時代は変わります。経済発展とともに、「ただ従順なだけでは競争社会を生き抜けない」と親たちも気づき始めました。そこで2000年代以降に爆発的に増えたのが、「スキル本(Sách kỹ năng sống)」です。
書店に行くと、この手の本が平積みされています。「友達を作る方法」「時間を守る方法」「怒りをコントロールする方法」。
私が買った本に「EQ」と書かれていたのも、この流れです。
一見、近代的な教育に見えます。しかし、その中身(物語構造)は、伝統的な教訓主義の「焼き直し」に過ぎないケースが多いのです。
問題行動(弟が文句を言う)
失敗(親に叱られる、または損をする)
反省・学習(我慢することを覚える)
成功(褒められる、「良い子」と認定される)
この単純化されたスキームは、親にとっては非常に都合の良い「即効性のある教育ツール」です。ベトナムの親は教育投資に熱心ですが、同時に「投資対効果(ROI)」にシビアです。
「この本を読めば、子供が我慢強くなる」「この本を読めば、挨拶ができるようになる」。そういった具体的な「機能」が求められるのです。
この「功利主義的な読書観」こそが、私が感じた「説教くささ」の正体であり、同時に、次に語る「日本の絵本」がベトナムで独自の変化を遂げた要因でもあります。
第3章:日本発「Ehon」の衝撃とパラドックス
そんな「教訓」と「スキル」が支配するベトナム市場に、2010年代中盤、黒船が到来しました。
それが、日本の絵本、現地で呼ばれる**「Ehon」**です。
今、ベトナムの都市部において「Ehon」という言葉は、単なる「日本の絵本」という意味を超え、一種の「先進的なブランド」「高感度な育児メソッド」として定着しています。
「心の栄養」としてのリブランディング
従来のベトナムの本が「脳への知識注入(または道徳注入)」だったのに対し、日本の絵本は**「Thực phẩm cho tâm hồn(心のための食品)」**として紹介されました。
『ぐりとぐら』や『きんぎょがにげた』のような、明確な教訓がなく、ただただ楽しい、あるいは美しい世界。これらはベトナムの親たちにとって、「子供と情緒的な絆(Bonding)を結ぶためのツール」として新鮮に映りました。
しかし、ここで面白い(そして少し皮肉な)現象が起きています。私はこれを**「Ehonパラドックス」**と呼びたいと思います。
感性を売るための「機能主義」マーケティング
日本の絵本が持つ価値は、本来「楽しさ」や「感性」「非認知能力」にあるはずです。しかし、成果を求めるベトナム市場でそれらを売るために、販売代理店や出版社は、「機能付け」を行いました。
それは**「脳科学による正当化」**です。
リサーチによると、ベトナムでの「Ehon」の宣伝文句は以下のようになっています。
『きんぎょがにげた』:単なる探し絵本ではなく、「前頭葉を刺激し、論理的思考と集中力を高めるツール」。
『もいもい』:赤ちゃんが泣き止む本ではなく、「視覚野を刺激し、早期からシナプス形成を促す英才教育ツール」。
オノマトペの多い本:「側頭葉を刺激し、将来の外国語習得の土台を作るツール」。
親たちは「教訓主義」から脱却し、「子供の感性を育てたい」と願いつつも、購入の決断を下すためには「これで頭が良くなる」という科学的(あるいは擬似科学的)な裏付けを必要としている。この葛藤が、ベトナムのEhon市場の歪みであり、面白さでもあります。
第4章:「日本式育児」というイデオロギー
このEhonブームの背景には、ベトナムで絶大な人気を誇る**「日本式育児(Nuôi con kiểu Nhật)」**というトレンドがあります。
ベトナムの書店には育児書コーナーがありますが、そこで「日本式」は最強のブランドです。
伝統式:過保護で、ご飯を追いかけ回して食べさせ、絶対服従を求める。
欧米式:自立を促すが、別室睡眠など「冷たい」と感じられる面がある。
日本式:添い寝や抱っこ(スキンシップ)を推奨しつつ、自分の荷物は自分で持たせるなどの「自律」も促す。
ベトナム人にとって日本式は、伝統的な家族の情愛(密着)を肯定しつつ、近代的な「自立した子供」を育てられる、理想的な「ハイブリッド・モデル」として受容されています。
「はじめてのおつかい」症候群
特に象徴的なのが「自立(Tự lập)」への憧れです。
日本の番組『はじめてのおつかい』はベトナムでも有名ですが、親たちはこれに強い憧れを抱いています。
従来の「Tiên học lễ」における「礼」が「親への従順」だったのに対し、Ehonや日本式育児が持ち込んだのは、「自分の頭で考え、行動する」という新しい「礼(社会性)」の定義でした。
『おむつのなか、みせて』や『みんなうんち』が受け入れられたのも衝撃的です。かつて「汚いもの」「隠すべきもの」だった排泄を、ユーモラスかつ科学的に扱うこれらの本は、親たちの意識を変革しました。
体罰や怒鳴り声ではなく、「共感(Empathy)」ベースで子供と接する。いたずらをしたデイビッド(『だめよ、デイビッド』)を最後には抱きしめる。
そうした「あるべき親の姿」のロールモデルを、ベトナムの親たちは日本の絵本の中に求めているのです。
第5章:ベトナム絵本のルネサンス、そして未来へ
私が本屋で手にした「説教くさい本」は、依然として市場の主流かもしれません。しかし、変化の兆しは確実に現れています。
日本のEhonブームに触発され、ベトナム国内でも「脱・教訓」を目指す動きが出てきているのです。
「Lionbooks」などの新興勢力
リサーチで注目したのは、LionbooksやCrabit Kidbooksといった新しい出版社です。彼らは、日本の絵本の「形式(子供目線、優しいタッチ)」を取り入れつつ、そこに「ベトナムの魂」を吹き込んでいます。
日本の絵本に出てくるおにぎりや雪景色は、ベトナムの子供には馴染みがありません。そこで彼らは、ベトナムの田園風景、テト(旧正月)の習慣、バイクで溢れる街角を、美しく、情緒的に描いています。
そして重要なのは、そこに「明示的な教訓」を入れないこと。「家族の温かさ」や「日常の幸せ」を描くことに注力し始めています。これは、ベトナム児童文学におけるルネサンス(再生)と言えるかもしれません。
マス層に残る「Wolfoo」の教訓
一方で、YouTubeなどの無料コンテンツでは、『Wolfoo』のようなアニメが爆発的な人気を誇っています。この内容は、実は私が遭遇した絵本に近いものです。「良い行い→良い結果」「悪い行い→トラブル」という、分かりやすい因果応報。
忙しい共働きの親たち(マス層)にとって、手軽に子供をおとなしくさせ、かつ「教育的」である(と言われる)コンテンツは依然として必要とされています。
ここには「階層分化」が見て取れます。
時間とお金のある層は、日本のEhonやLionbooksで「感性」や「非認知能力」を育てる。
そうでない層は、YouTubeや安価なスキル本で「規範」や「正解」を教え込む。
「説教くさい本」がなくならない背景には、こうした社会構造の問題も潜んでいるようです。
おわりに:私はその本をどうするか
さて、冒頭の「姉ばかり優先される本」の話に戻りましょう。
私はこの本をどうするのか決めかねています。返品するのか、誰かにあげるのか、捨てるのか。いずれにせよ、子どもたちには見せたくありません。
しかし、今回のDeep Researchを経て、あの本に対する見方は少し変わりました。あれは単なる「悪書」ではなく、ベトナムという国が急激な変化の中で抱える「迷い」の結晶なのだと。
伝統的な「礼」を重んじる心と、グローバル社会で通用する「個」を育てたいという願い。
即効性のある「スキル」を求める焦りと、豊かな「感性」を育みたいという理想。
ベトナムの親たちは、その狭間で揺れ動いています。私が書店で目にしたのは、その過渡期にある社会の断片だったのです。
これからベトナムで子育てをしていく身として、この国の文化を尊重しつつも、流されずにいたいと思います。
「Tiên học lễ(先ず礼を学び)」の解釈を、「盲目的な服従」から「他者への共感」へとアップデートしていくこと。
そして、AI翻訳に頼らずとも、いつか自分の言葉で、ベトナムの面白い絵本(Lionbooksのような新しい波!)を子供たちに読み聞かせてあげられるようになること。
それが、私の次の目標になりそうです。



