はじめに
「ベトナムで会社を作る」と聞いて、日本で株式会社を設立するのと同じ感覚でスケジュールを組む方が少なくない。日本なら、司法書士に頼んで定款を作り、法務局に登記すれば、最短1〜2週間で法人格が手に入る。ところがベトナムでは、その何倍もの時間・書類・手続きが待っている。
ベトナムの外資企業設立には、日本にはない「二重許可制度」が存在する。「投資登録証明書(IRC)」と「企業登録証明書(ERC)」の2つを取得して初めて法人が動き出すのだ。しかも2026年3月、この制度に30年ぶりとも言われる大改正が入った。
この記事では、IRCとERCの取得フロー、設立後に必要な手続きの全体像、そして2025年改正投資法がもたらす変化まで、ベトナムで会社を設立する際に知っておくべきことを体系的に解説する。
第1章 ベトナムの会社設立は「二重許可制度」で動いている
日本の法人設立と何が違うのか
日本では、会社を作りたければ定款を作成し、公証人の認証を受け、法務局に登記すれば完了する。手続きの主導権は発起人(起業家)にあり、行政は書面審査をするだけだ。
一方、ベトナムの外資企業設立は「国家が投資プロジェクトを審査し、認可する」という思想に基づいている。外国人がベトナムで事業を行うには、まず「どんな事業を、どこで、いくらの資本で行うか」を国に申告し、許可を得なければならない。これが**投資登録証明書(IRC: Giấy chứng nhận đăng ký đầu tư)**の取得手続きだ。
IRCを取得して初めて、法人の登記(**企業登録証明書(ERC: Giấy chứng nhận đăng ký doanh nghiệp)**の取得)に進める。つまり、日本の「登記」に相当するステップの前に、「投資プロジェクトの許可」という関門がもう一つあるのだ。
この違いは、ベトナムの外資規制の歴史に由来する。1987年の外国投資法以来、ベトナム政府は外国からの投資を「国家が管理する資源」として位置づけてきた。投資法(Luật Đầu tư 2020、法律第61/2020/QH14号) と 企業法(Luật Doanh nghiệp 2020、法律第59/2020/QH14号) の二本柱で、外資の参入を二段階でコントロールする構造が今日まで続いている。
設立の全体像:10のステップ
ベトナムで外資100%の有限責任会社(LLC)を設立する全体フローは、大きく以下の4フェーズ・10ステップに分かれる。書類準備から事業開始まで、全体で2〜3ヶ月が標準的な所要期間だ。
フェーズA:書類準備(2〜3週間)
| ステップ | 内容 | 所要日数 |
|---|---|---|
| 1. 親会社書類の取得 | 登記簿謄本(6ヶ月以内)、財務諸表(直近2期)、取締役会議事録 | 1〜2週間 |
| 2. アポスティーユ・翻訳 | 外務省アポスティーユ取得、ベトナム語公証翻訳 | 1〜2週間 |
| 3. 現地書類の準備 | 投資プロジェクト提案書、定款案、事業所の賃貸契約書またはLOI | 並行して |
フェーズB:IRC取得(約15営業日)
| ステップ | 内容 | 所要日数 |
|---|---|---|
| 4. IRC申請 | 工業団地管理委員会または省計画投資局(DPI)に申請 | — |
| 5. 審査・発行 | 法的資格、財務能力、事業内容の3軸で審査 | 約15営業日 |
フェーズC:ERC取得(約3〜5営業日)
| ステップ | 内容 | 所要日数 |
|---|---|---|
| 6. ERC申請 | 省DPIの企業登記窓口に申請(定款、社員リスト、IRC等を提出) | — |
| 7. ERC発行 | 法人格が発生。企業コード(=税番号)が付与される | 約3〜5営業日 |
フェーズD:設立後手続き(2〜4週間)
| ステップ | 内容 | 期限 |
|---|---|---|
| 8. 印鑑作成・税務登録 | 法人印鑑作成・公告、税務登録(10営業日以内)、e-invoice登録 | ERC取得後10営業日 |
| 9. 銀行口座・資本金 | DICA口座開設、親会社からの資本金送金(90日以内) | ERC取得後90日 |
| 10. 労務関連 | 社会保険登録、労働許可証(外国人の場合6〜7週間)、労働規則制定 | 雇用開始30日以内 |
第2章 IRC取得の実務 ―「卵が先か、鶏が先か」問題
法人がないのに賃貸契約が必要?
IRC申請の段階で、多くの日本人が「おかしい」と感じるのが、法人が存在しない段階で事業所の賃貸契約書を提出しなければならないという要件だ。
日本では、法人を設立してからオフィスを契約するのが当たり前だ。ところがベトナムでは、IRCの審査において「どこで事業を行うか」を証明する書類が必須とされている。つまり、法人格がない状態で不動産オーナーや工業団地デベロッパーと契約を結ぶ必要がある。
実務上の解決策は、以下のいずれかだ:
- 投資家個人名義での仮契約:日本の親会社名義、または法定代表者予定者の個人名義で賃貸予約契約を締結する
- LOI(Letter of Intent / 意向書):正式な賃貸契約ではなく、「法人設立後に正式契約を締結する」旨の意向書を工業団地デベロッパーと取り交わす
- 工業団地管理委員会の協力:多くの工業団地は外資誘致に積極的であり、IRC申請に必要な所在地証明を柔軟に発行してくれる
審査の3つの柱
IRC審査では、以下の3点が重点的に確認される:
法的資格:親会社が実在する法人であること。登記簿謄本(アポスティーユ付き)で証明する。
財務能力:投資に必要な資金を調達できること。直近2年分の監査済み財務諸表が最も有力な証拠だ。設立間もない企業や財務諸表で十分な資金力を示せない場合は、親会社の資金支援誓約書(Capital Support Letter)で補完できる。
事業計画:事業目的・規模・資本金・資金計画・所在地・実施スケジュール・雇用計画を記載した投資プロジェクト提案書(Đề xuất dự án đầu tư)。これは日本の事業計画書に近いが、行政向けの公式文書としてベトナム語で作成する点が異なる。
投資政策承認が必要なケース
すべてのプロジェクトがIRC申請だけで済むわけではない。改正投資法第24条は、事前に「投資政策承認(Chấp thuận chủ trương đầu tư)」が必要な20類型を列挙している。カジノ、原子力発電、大規模港湾・空港、5,000ha以上の森林転用などが含まれる。
一般的な製造業が通常の工業団地内で操業する場合は、この承認は不要だ。ただし、「承認不要」と「承認必要」の境界線は日本人の感覚では判断しにくいケースがあるため、現地法律事務所への事前確認を推奨する。
第3章 ERC取得と設立後手続き ― ここからが本当のスタート
ERC取得は「ゴール」ではなく「スタートライン」
IRC取得後、ERC申請は比較的スムーズに進む。定款、社員リスト、実質的支配者リスト、法定代表者のパスポートコピー、IRCを提出すれば、原則3〜5営業日でERCが発行される(企業法第59/2020/QH14号)。
ERCが発行されると法人格が発生し、企業コード(=税番号:Mã số thuế)が付与される。しかし、「ERCを取れば事業を始められる」と考えるのは早計だ。ERCの後に控える設立後手続きの方が、実は手間がかかる。
DICA口座と「90日ルール」の罠
外資企業にとって最も重要な設立後手続きが、**直接投資資本口座(DICA)**の開設と資本金の払込だ。
DICAは、外国投資家がベトナムに資本を投入し、将来の利益を本国に送金するための専用口座で、外資企業(FDI企業)には開設が義務付けられている。一般の銀行口座とは別に、投資に関する資金移動はすべてDICA経由で行わなければならない。
問題は、ERC発行日から90日以内に定款資本金をDICA口座に全額払い込まなければならないという厳格なデッドラインだ。「90日もあれば余裕だろう」と思いがちだが、実務ではそう簡単にはいかない:
- DICA口座の開設自体に2〜4週間かかることがある
- 銀行のKYC(顧客確認)審査が厳格で、追加書類を求められることが多い
- 日本の親会社からの海外送金に1〜2週間かかる
- ベトナムの銀行側のコンプライアンスチェックでさらに数日〜1週間
これらを合計すると、実質的に使える期間は想像以上に短い。90日を超過した場合は、定款資本金の強制減額登記や行政罰金の対象となる。
税務登録とe-invoice ― 紙のインボイスは存在しない
ERC取得後10営業日以内に税務登録を完了させる必要がある。デジタル署名(Token Key)の取得、電子税務申告システム(e-tax)の設定、そして**電子インボイス(e-invoice / Hóa đơn điện tử)**の登録が必須だ。
ベトナムではDecree 123/2020に基づき、すべての企業に電子インボイスの使用が義務化されている。日本のように紙の請求書や領収書で経費処理ができる世界とは全く異なる。e-invoiceの登録が完了しないと、売上計上も仕入税額控除もできず、事業が実質的に動かない。
社会保険 ― 日本との負担率の違い
従業員を雇用したら30日以内に社会保険機関に登録する。2025年時点の保険料負担率は以下のとおりだ:
| 保険の種類 | 雇用主負担 | 従業員負担 | 合計 |
|---|---|---|---|
| 社会保険(BHXH) | 17.5% | 8% | 25.5% |
| 健康保険(BHYT) | 3% | 1.5% | 4.5% |
| 失業保険(BHTN) | 1% | 1% | 2% |
| 合計 | 21.5% | 10.5% | 32% |
合計32%という負担率は、日本の社会保険料率(約30%)とほぼ同水準だが、日本と異なり失業保険が別枠で存在する点、そして外国人従業員にも原則として社会保険加入義務がある点に注意が必要だ。
第4章 2026年の大改革 ―「ERC先行取得」で何が変わるのか
30年来の常識が覆った
2025年に成立した改正投資法は、2026年3月1日に施行される。この法律の最大の目玉が、第19条第2項に規定された「ERC先行取得制度」だ。
従来、外国投資家はベトナムで法人を設立するために、必ずIRC(投資プロジェクトの許可)を先に取得し、その後にERC(法人登記)を申請するという順序に縛られていた。この「IRC → ERC」の順序は30年以上にわたる鉄のルールだった。
改正法では、外国投資家が市場アクセス条件(業種ごとの外資規制)を満たしていれば、ERCを先に取得してからIRCを申請することが認められた。これは「法人先行・プロジェクト後追い(Incorporation-First Approach)」と呼ばれ、ベトナムの国内投資家と同様のスタートラインに立てるようになったことを意味する。
実務上のメリット
ERC先行取得にはいくつかの実務的メリットがある:
- 法人格を早期に取得できるため、銀行口座の開設、オフィスの賃貸契約、取引先との予備的な契約締結がIRC取得前に可能になる
- 設立準備費用を法人名義のVATインボイスで処理できるため、VAT控除の取りこぼしを防げる(従来は個人名義や親会社名義の支出となり、VAT控除ができなかった)
- 手続きの並行処理が可能になり、全体の所要期間を短縮できる
「6ヶ月ルール」という新たなリスク
ただし、ERC先行取得には重大な注意点がある。施行規則(Decree草案)では、ERC取得後6ヶ月以内にIRCの取得を完了しなければならず、期限内にIRCを取得できなかった場合は法人の解散手続きを行う義務が生じる。
この「6ヶ月ルール」は、IRC申請を「提出すればよい」のではなく、「IRCを取得し終えていなければならない」というハードデッドラインとして設計されている。問題は、当局側の審査遅延(安全保障・防衛関連の省庁間協議、年末の予算消化期の審査停滞など)が生じた場合でも、解散義務が企業側に発生する可能性がある点だ。
この点は実務家の間でも懸念が表明されており、施行規則の最終版でどのように調整されるかが注目されている。
特別投資手続制度 ― 工業団地なら大幅に簡素化
改正投資法第36a条は、「特別投資手続制度」を大幅に拡充した。工業団地・輸出加工区・ハイテクパーク・デジタル技術区・自由貿易区内のプロジェクトは、以下の特典を受けられる:
- 投資政策承認が不要
- 環境影響評価(EIA)の個別審査が不要
- 詳細計画承認・建設許可が不要
- 15営業日以内にIRCが発行される
代わりに、法的条件・技術基準の遵守を「誓約書(commitment)」として提出する。つまり、「事前許可」から「事後検査」への転換だ。工業団地内で事業を行う企業にとっては、設立手続きが大幅に簡素化される。
日本との違い ― 「日本の常識が通じない」ポイント
「登記すれば終わり」ではない
日本では、法務局に登記が完了した時点で法人として活動を開始できる。ところがベトナムでは、ERC取得後の設立後手続き(税務登録、DICA口座開設、e-invoice登録、社会保険登録)が完了して初めて事業が動き出す。「登記=事業開始」という日本の感覚で現地スタッフに指示を出すと、「まだ何もできません」という回答が返ってくることになる。
法定代表者がベトナムにいないと止まる
日本の代表取締役は海外出張で不在でも、会社の業務は粛々と進む。しかしベトナムの法定代表者はベトナムに居住していることが法的要件であり、30日以上不在にする場合は書面で代行者を委任しなければならない(企業法第12条)。
実際によくあるのは、日本人の総経理(法定代表者)が日本出張中に行政手続きが発生し、「法定代表者の署名がないので受理できません」と当局に言われて手続きが数週間止まるケースだ。委任状の整備を怠ると、こうした「不在リスク」がじわじわと経営を圧迫する。
「アポスティーユ」を知らない日本人が多い
ベトナムでの法人設立には、日本で発行された公文書にアポスティーユ認証(外務省の公印確認)を付す必要がある。さらにベトナム語への公証翻訳も必須だ。日本国内で法人設立を経験した人は「アポスティーユ」という言葉すら聞いたことがないことが多く、準備が後手に回りがちだ。取得には1〜2週間かかるため、スケジュールの初期段階で手配する必要がある。
ここが変わった(2025〜2026年)
| 変更点 | 旧制度(〜2026年2月) | 新制度(2026年3月〜) |
|---|---|---|
| 設立順序 | IRC → ERCの順番が絶対 | ERC先行取得が可能に |
| 6ヶ月ルール | なし | ERC取得後6ヶ月以内にIRC未取得で解散義務 |
| 投資承認 | 対象が不明確 | 20類型を明確に列挙 |
| 特別手続 | 限定的 | 工業団地内プロジェクト全般に拡大 |
| 条件付き分野 | 多数のライセンス | 38業種のライセンス撤廃、事後検査制へ |
| 営業許可料 | 年間納付義務あり | 2026年1月廃止 |
| オンライン登記 | 通常アカウント | 国家電子識別(eID)連携が必要に |
施行日: 主要部分は2026年3月1日。条件付き業種リスト関連は2026年7月1日。
まとめ:やっておくべきこと
アポスティーユ認証の早期手配:登記簿謄本・財務諸表の取得とアポスティーユ認証は設立予定の3ヶ月前に着手する。翻訳も含めると最低1ヶ月はかかる
事業所の確保を先行する:IRC申請には賃貸契約書が必要。工業団地デベロッパーとのコンタクトは、法人設立の意思決定と同時に開始すべき
法定代表者の選定と居住計画を固める:ベトナムに常駐する人材を早期に確定し、30日以上の不在時の委任体制も設計しておく
DICA口座開設の所要期間を銀行に事前確認:90日の資本金払込期限から逆算し、ERC取得と同時に口座開設手続きを始める。銀行のKYC審査に時間がかかることを想定し、複数の銀行に同時にアプローチするのも有効
ERC先行取得制度の利用可否を検討:2026年3月以降に設立する場合、法人先行方式が使えるか、6ヶ月ルールのリスクを許容できるかを、現地法律事務所と協議する
特別投資手続(第36a条)の適用を確認:工業団地内での設立を予定している場合、EIA・建設許可の免除を受けられるか事前に確認し、手続きの大幅な簡素化を狙う
現地の法律事務所・会計事務所を早期に選定:設立手続きは現地専門家のサポートなしには事実上不可能。設立意思決定後、最初にやるべきは専門家の選定である
設立後手続きのスケジュールも含めた全体計画を立てる:ERC取得を「ゴール」にせず、税務登録・e-invoice・社会保険・労働許可証まで含めた全工程をカレンダーに落とし込む



