はじめに
「定款なんて、弁護士に任せておけばいい」。日本の中小企業の多くは、定款をそういう位置づけで捉えている。設立時に司法書士が作ってくれたものをそのまま使い、中身を読み返すことなど滅多にない。
ところがベトナムでは、定款の中身が経営者の個人的なリスクに直結する。法定代表者の権限が曖昧なまま定款を作ると、全法定代表者が連帯責任を負うことになる。監査の手続きを定款に盛り込まなければ、利益を日本に送金できない事態になる。そして何より、ベトナムの法定代表者には出国禁止のリスクがついて回る。
この記事では、ベトナムで有限責任会社(LLC)の定款を作る際に、日本人経営者が必ず押さえるべきポイントを解説する。
第1章 定款に書かなければならない15の項目
企業法が定める必須記載事項
ベトナムの企業法(Luật Doanh nghiệp 2020、法律第59/2020/QH14号)第24条は、LLCの定款に必ず記載すべき事項を列挙している。日本の定款の「絶対的記載事項」に相当するものだが、その範囲は日本よりもはるかに広い。
主な必須記載事項は以下のとおりだ:
| 項目 | 記載内容 | 日本の定款との違い |
|---|---|---|
| 会社名 | ベトナム語が原則。外国語併記可 | 日本は自由 |
| 本店所在地 | 省・市・区・番地まで | 日本は最小行政区画まで |
| 事業分野 | VSICコードと一致させる | 日本は目的を広く書ける |
| 定款資本金 | VND建てが原則 | 日本は最低資本金なし |
| 出資者の情報 | 法人名・登録番号・住所 | 日本は発起人の記載 |
| 法定代表者の人数・役職・権限 | 最重要。権限分掌が必須 | 日本では定款に詳細不要 |
| 決議要件 | 定足数・普通決議・特別決議 | 日本は会社法のデフォルト |
| 利益配当の原則 | 配当可能額の計算方法 | 日本は取締役会決議で可能 |
| 解散・清算の処理 | 残余財産の分配方法 | 日本は会社法の規定に従う |
特に注目すべきは、法定代表者の権限分掌と利益配当の原則の2つだ。日本の定款ではこれらを詳細に記載する必要はないが、ベトナムでは記載の有無が重大な法的結果を生む。
ベトナム語が「唯一の正本」
定款はベトナム語で作成するのが原則だ。日本語版や英語版を併記することは可能だが、法的効力があるのはベトナム語版のみ。
ここに落とし穴がある。日本の親会社は通常、英語版の定款をベースに内容を確認し、承認する。しかし、実際に法的効力を持つベトナム語版に微妙なニュアンスの違いがあっても、気づかないことが多い。特に法定代表者の権限範囲や利益配当の条件など、重要な条項でベトナム語版と英語版にズレがあると、後々トラブルになる。
対策: ベトナム語版を「翻訳元」、日本語/英語版を「翻訳先」として作成し、法律事務所にダブルチェックさせる。
第2章 法定代表者 ― 「名前だけ」では済まない重い責任
ベトナムの法定代表者は日本の代表取締役より「重い」
日本の代表取締役は、会社法上の善管注意義務・忠実義務を負うが、実務上、個人として行政罰を受けたり、移動の自由を制限されたりすることはまずない。会社が税金を滞納しても、代表取締役の個人の出国が禁止されることは日本では考えられない。
ベトナムの法定代表者(Người đại diện theo pháp luật)は、企業法第12条に基づき、以下の義務と責任を負う:
- 誠実義務・注意義務:「誠実に、注意深く、自己の能力の限りを尽くして」職務を遂行する義務
- 損害賠償責任:義務違反により会社に損害を与えた場合、個人的に賠償責任を負う
- 地位・財産の濫用禁止:法定代表者の地位や会社の財産を私的利益のために利用することは禁止
そして最も衝撃的なのは、**法定代表者に対する出国禁止措置(cấm xuất cảnh)**の可能性だ。会社が税金や社会保険料を未納のまま放置した場合、当局は法定代表者の出国を禁止する措置を取ることができる。日本人駐在員が法定代表者として登記されている場合、ベトナムから出国できなくなるリスクがあるのだ。
居住義務と「30日ルール」
企業法第12条は、少なくとも1名の法定代表者が常にベトナムに居住していることを要求している。法定代表者が1名のみで、その人が30日以上ベトナムを離れる場合は、ベトナムに居住する他の個人に書面で権限を委任しなければならない。
この規定を軽視した場合に何が起きるか。法定代表者がベトナム不在の間に、税務当局からの通知、銀行からの署名要求、取引先との契約締結、従業員の解雇手続きなど、法定代表者の署名が必要な場面は次々と発生する。委任状がなければ、これらはすべて処理不能となり、ビジネスが停滞する。
複数の法定代表者 ― 「保険」にもなるし「爆弾」にもなる
ベトナムでは、LLCに複数の法定代表者を置くことが認められている。これは日本の代表取締役の「共同代表」に近い概念だが、決定的な違いがある。
定款に各法定代表者の権限分掌を記載しなかった場合、全法定代表者がすべての事項について全権限を持つとみなされ、いずれかの法定代表者が会社に損害を与えた場合、全法定代表者が連帯して賠償責任を負う。
つまり、「日本人社長を法定代表者にして、ベトナム人副社長も法定代表者にしよう。権限の分け方は運用で決めればいい」という曖昧な対応は、両者の連帯責任という重大なリスクを生む。
対策: 定款に各法定代表者の権限範囲を明確に記載する。例えば:
- 法定代表者1(社長):一定金額以上の契約締結、銀行借入、固定資産の売買
- 法定代表者2(副社長):日常的な行政手続き、一定金額以下の契約締結、人事関連
第3章 外資100%子会社の機関設計 ― 会長制か、社員総会制か
2つの選択肢
外資100%子会社(一人有限会社)の場合、機関設計には2つの選択肢がある:
選択肢A:会長制(推奨)
親会社が「会長(Chủ tịch công ty)」を1名任命する。会長が最高意思決定権限を持ち、社長を任命する。小規模な外資子会社では最も一般的な構造。
日本親会社(唯一の出資者)
↓
会長(Chủ tịch)= 親会社の代表取締役 or 指名者
↓
社長(Giám đốc)= 現地の総経理(日本人 or ベトナム人)
↓
監査役(任意)
メリット: 意思決定がシンプル。親会社の意思が直接反映される。
選択肢B:社員総会制
親会社が3名以上の委任代表者を任命し、社員総会(Hội đồng thành viên)を構成する。特別決議は出席者の出資比率の75%以上で成立。
メリット: 重要な決定に合議が求められるため、ガバナンスが強化される。 デメリット: 意思決定に時間がかかる。出席者を確保する必要がある。
外資100%子会社の場合は、**選択肢A(会長制)**が実務上の主流だ。意思決定のスピードと親会社のコントロールを重視するなら、この構造が最適。
監査役の設置
一人有限会社では、監査役の設置は任意だ。ただし、ベトナムの外資企業は規模を問わず法定監査が義務であるため(独立監査法第67/2011/QH12号第37条)、社内の監査役設置は省略しても、外部監査法人による法定監査は毎年実施しなければならない。
第4章 利益配当 ― 監査なしでは1円も日本に送金できない
配当送金の5つの条件
ベトナムの外資企業が日本の親会社に利益を送金(配当)するためには、以下の5つの条件をすべて満たす必要がある:
- 法定監査の完了:ベトナムの公認会計士による監査済み財務諸表が存在すること
- 繰越欠損金がないこと:累積赤字が解消されていること
- 全税金の納付完了:法人税・VAT・PIT等の未払いがないこと
- 配当通知の事前提出:送金予定日の7営業日前までに税務当局に配当通知書を提出
- DICA口座経由の送金:直接投資資本口座から送金
配当可能額の計算式
配当可能額 = 税引後利益(監査済み)+ 繰越利益剰余金 − 再投資金額
「監査を後回し」にした企業の末路
「まだ赤字だから監査は不要」「コスト削減のために監査を毎年やる必要はない」。こうした判断は、ベトナムでは致命的な結果をもたらす。
外資企業は法定監査が義務であり、監査を実施していないと:
- 利益送金が完全に停止される(銀行がDICA口座からの送金を拒否)
- 法人税の確定申告書に監査報告書を添付する義務があり、未添付は申告不備とみなされる
- 黒字転換後に過年度分の監査をまとめて実施する場合、多額の追加監査費用が発生する
設立初年度から毎年法定監査を実施することは、コストではなく「利益送金の前提条件を整える投資」と捉えるべきだ。
送金のタイミング
ベトナムでは利益送金は年1回が原則だ。日本のように四半期ごとの中間配当は認められていない。また、配当送金時にベトナム側で追加の源泉税は課されない(0%)。ただし、日本側では受取配当金の95%が外国子会社配当益金不算入制度(25%以上の持分を6ヶ月以上保有する場合)により益金不算入となる。
第5章 定款変更 ― 頻繁にやると当局の目を引く
変更が必要になる場面
定款変更が必要になるのは、以下のような場面だ:
- 会社名の変更
- 本店所在地の移転
- 事業分野(VSICコード)の追加・変更・削除
- 定款資本金の増減
- 法定代表者の変更
- 機関設計の変更
手続きは、所有者(親会社)の決定書を作成し、省の計画投資局(DPI)に変更届出を提出する。処理期間は約10営業日。
「とりあえず広く書いておく」が裏目に出る理由
日本では、定款の事業目的をできるだけ広く書いておくのが一般的だ。「将来やるかもしれない事業もとりあえず入れておこう」という発想だ。
しかしベトナムでは、定款に記載した事業分野(VSICコード)が条件付き投資分野に該当すると、IRC取得時に追加の条件を満たす必要が生じる。また、複数の事業分野を登録した場合、最も厳しい外資比率制限に全社が引きずられる可能性がある(No.02で詳述)。
定款の事業目的は、実際に行う事業に絞って記載し、事業拡大時には都度変更申請する方が安全だ。変更手続き自体は10営業日程度で完了するため、「最初から広く書く」リスクを取るよりも、「必要になったら変更する」方が合理的である。
日本との違い ― 「日本の常識が通じない」ポイント
代表取締役 vs 法定代表者:責任の重さが違う
日本の代表取締役は会社法上の善管注意義務を負うが、個人として出国制限を受けるリスクはゼロに近い。ベトナムの法定代表者は、会社の税務・社会保険の未払いにより個人として出国禁止の対象になり得る。「法定代表者は名前だけ」という日本的な感覚は通用しない。
特別決議のハードル:66.7% vs 75%
日本の株式会社の特別決議は「出席議決権の2/3以上」(66.7%)。ベトナムのLLCは「出資総額の75%以上」。しかも、この基準を定款で引き下げることは法的に認められない。合弁会社の場合、少数株主が25%以上を持てば、事実上の拒否権を持つことになる。
監査=利益送金の前提条件
日本の中小企業は法定監査が不要なケースが多く、監査なしでも配当は可能。ベトナムでは外資企業は規模を問わず法定監査が義務であり、監査未実施は利益送金の完全停止を意味する。
ここが変わった(2025〜2026年)
| 変更点 | 内容 |
|---|---|
| 企業法改正(法律第76/2025/QH15号) | 印鑑規定の簡素化、法定代表者の委任手続きの明確化 |
| ERC先行取得制度との連動 | IRC取得前に定款を確定させる必要があり、早期の定款設計が重要に |
| オンライン登記のeID連携 | 定款変更手続きにVNeIDが必要 |
| 営業許可料の廃止 | 2026年1月1日から年間営業許可料が不要に |
まとめ:やっておくべきこと
法定代表者は最低2名体制にする:日本人社長+ベトナム人副社長。社長の出張時にも業務が止まらない体制を構築する
定款に法定代表者の権限分掌を必ず明記する:記載がないと全法定代表者が全権限+連帯責任。署名権限の範囲(金額基準、契約種類、銀行取引等)を具体的に書く
30日ルールの委任状テンプレートを事前に準備する:法定代表者がベトナムを離れるたびに必要になるため、定型フォーマットを法律事務所に作成させておく
設立初年度から毎年法定監査を実施する:「赤字だから不要」は危険な判断。監査は利益送金の前提条件であり、コストではなく投資として捉える
事業分野は実際に行う事業に絞って記載する:「将来のために広く書いておく」は、条件付き分野の該当リスクを高める。事業拡大時は都度変更申請(10営業日)で対応
ベトナム語版の定款を法律事務所にダブルチェックさせる:法的効力があるのはベトナム語版のみ。日本語/英語版との齟齬がないか、特に法定代表者の権限と利益配当の条件は重点確認
法定代表者の個人リスクを理解した上で就任する:税務・社会保険の未払いによる出国禁止リスクを認識し、定期的な納税状況の確認体制を構築する



