はじめに

本シリーズにはベトナムビジネスの各テーマを収録しているが、そのどれを読むにしても、まず理解しておかなければならないことがある。それは「ベトナムの法律は、日本の法律と同じようには機能していない」という事実だ。

日本では「ベトナムの法律にはどう書いてありますか?」「過去の判例はありますか?」という質問は至極当然のものだ。法律の条文と裁判所の判例を確認すれば、「何をすべきか」は概ね明確になる。ところがベトナムでは、国会が制定した「法律」の条文を読んだだけでは実務が1ミリも動かない。「判例を根拠に戦う」という発想自体が、この国の法体系では機能しにくい。

なぜそうなるのか。その答えは、ベトナムという国家の成り立ちと、法がこの国で果たしている役割の根本的な違いにある。本章では、ベトナムの法体系・行政システム・権力構造を、日本との対比で体系的に整理する。以降の全テーマを読み解くための「地図」として活用いただきたい。

第1章 「法の支配」と「法による支配」── 2つの法治の根本的な違い

日本と欧米が前提とする「法の支配」(Rule of Law)

日本を含む先進民主主義国家の法体系は、「法の支配」(Rule of Law)という原則に立脚している。その核心は、「法は国家権力を縛るために存在する」という思想だ。

どんなに強力なリーダーや政府であっても、法律(特に憲法)に拘束される。権力者がルールを破れば、独立した司法機関によって裁かれる。法の上に立つ者は誰もいない──これが「法の支配」の大原則だ。

この原則があるからこそ、日本では「法律にどう書いてあるか」が議論の出発点になる。裁判所は政府から独立しており、違憲立法審査権を持つ。過去の裁判例(判例)には事実上の法的拘束力があり、法律の解釈を安定させる。「法律→判例→実務」という一貫したルートで、企業は自らの行動を予測し、計画できる。

ベトナムが採用する「法による支配」(Rule by Law)

一方、ベトナムの法体系は、「法による支配」(Rule by Law)の特徴を強く持っている。言葉は似ているが、法と国家権力の力関係が根本から逆転している。

「法の支配」では、法が権力の上に立つ。国家権力は法によって縛られ、制限される。

「法による支配」では、権力が法の上に立つ。法は、国家が社会を効率的に統治し、国家目標を達成するための「ツール」として機能する。

ベトナム社会主義共和国憲法第4条には、「ベトナム共産党が国家と社会の指導勢力である」と明記されている。つまり、構造上「共産党>憲法・法律」というヒエラルキーが存在する。法律は国民の権利を保護するための盾ではなく、党と国家が社会を正しい方向(社会主義的市場経済の発展や国家の安定)へ導くためのハンドルやアクセルとして設計されている。

実務への影響:なぜ「法律に書いてある」では不十分なのか

この構造の違いは、ベトナムで事業を行うすべての外資企業の日常業務に直結する。

  • トップダウンの圧倒的なスピードと実行力:党や政府が「この方向で行く」と決定した場合、それを実行するための法律や政令(Nghị định)、通達(Thông tư)が次々と作られ、末端の行政機関や国民に対して厳格に適用される。国家の意思決定が社会に反映されるスピードは、日本とは比較にならないほど速い。
  • 法律の条文が意図的に曖昧:法は権力を縛るものではないため、条文が大枠しか定めないことが多い。実際の運用は現場の行政機関(人民委員会や税務署など)の「裁量」に委ねられる。担当者によって解釈が変わったり、突然ルールの運用が厳格化されたりする。
  • 法の目的は「管理」:新しい法律や規制ができるときの主眼は「いかに個人の自由を守るか」よりも、「いかに国家としてリスクを管理し、秩序を保つか」に置かれる。そのため、許認可手続きや報告義務といった管理的なコンプライアンス要件が非常に細かく設定される傾向がある。

歴史的視点:日本もかつて「法による支配」の国だった

実は、この「法による支配」の体制は日本にも歴史的な前例がある。明治維新後、近代国家を急造するにあたり、明治政府は英米の「法の支配」ではなく、当時のプロイセン(ドイツ)の形式的法治主義をモデルにした。大日本帝国憲法では、国民の権利はあくまで「法律の範囲内において」保障されるものとされていた。富国強兵という明確な国家目標に向かって、国家が上から法を整備して国民を統合するトップダウン型のシステムが採用されたのだ。

現在のベトナムは、社会主義的市場経済の発展という国家目標に向かって、まさにこの「上からの法整備」のフェーズにある。その文脈を理解していれば、ベトナムの法規制の意図と運用が格段に読みやすくなる。

第2章 三権分立 vs 民主集中制 ── 国家権力の設計図が根本から違う

日本の三権分立:「権力を分散させて牽制する」

近代民主主義の基本である三権分立は、国家権力を立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)の3つに分け、互いに監視・牽制させる仕組みだ。その目的は「権力は必ず腐敗し、暴走する」という前提に立ち、国家権力が国民の権利を不当に侵害しないよう、権力を制約することにある。

日本では、国会が法律を作り、内閣が法律に基づいて国を運営し、裁判所が法律に基づいて争いを裁く。裁判所は政府から完全に独立しており、法律が憲法に違反するかどうかを審査する違憲立法審査権を持つ。この「チェック・アンド・バランス」こそが、「法の支配」を支える最も重要なシステムだ。

ベトナムの民主集中制:「権力を集中させて実行する」

ベトナムの国家運営の基本原則は「民主集中制」と呼ばれる。これは三権分立を明確に否定する概念だ。

構造としては、立法(国会)、行政(政府)、司法(人民裁判所)という3つの機関は存在する。しかし、それらは互いを牽制する対等な関係ではない。すべての上にベトナム共産党が存在し、党の決定をそれぞれの機関が分担して実行するという縦の構造になっている。

立法(国会)の実態:ベトナムの国会は憲法上「国家の最高権力機関」とされているが、国会議員の大多数は共産党員とされる。党の最高意思決定機関である「政治局」や「中央委員会」で国の方針(決議)が先に決まり、国会はその党の決議を「法律」という形に翻訳し、制度化するための機関として機能する。この構造上、党の意向に反する法律が国会を通過することは考えにくい。

司法(裁判所)の実態:三権分立の国では、裁判所は政府から完全に独立していなければならない。しかしベトナムにおいて、裁判所は「社会主義体制と党の指導を守る」という明確な役割を負っている。裁判官の任命や昇進は実質的に党の意向が強く反映される。そして最も重要な点として、党や政府が作った法律が憲法違反かどうかを審査する、独立した「違憲審査機関」が存在しない。司法は国家権力の暴走を止めるブレーキではなく、党と国家の秩序を維持するための装置として機能している。

実務への影響:なぜ「裁判で戦う」が選択肢になりにくいのか

この権力構造が、外資企業の日常業務に及ぼす影響は大きい。

  • 行政の判断を裁判でひっくり返すのは極めて困難:税務署の追徴課税や労働局の指導に対して、日本なら「行政訴訟を起こす」という選択肢がある。ベトナムでは物理的には可能だが、司法が行政と対等な独立機関ではないため、時間もコストも莫大にかかり、その後の当局との関係悪化という大きなカントリーリスクを背負うことになる。
  • 紛争解決は裁判所以外で:そのため、企業間の紛争や行政との争いでは、仲裁機関(VIAC等)の利用や、行政担当者との直接交渉による解決が実務的な選択肢となる。本ガイドの「契約書の準拠法・紛争解決」で詳述する。
  • 「問題が起きてから法律で戦う」のではなく「問題が起きる前にコントロールする」:行政担当者との関係構築や、社内規定の厳格な運用によって「グレーゾーンを管理する」というリスクマネジメントが、ベトナムでは最も重要な企業防衛戦略となる。

第3章 法律・政令・通達・公文 ── 「法律より通達が強い国」の法令階層

ベトナムの法制度を理解する上で最も重要なのが、法令の階層構造だ。「法律の根拠は?」という問いに対して、ベトナムでは「法律」だけでは答えにならないことが多い。実務を規定する「本当のルール」は、法律よりも下位の法令にある。

4層構造の法令ヒエラルキー

名称 発行元 実務上の役割
1 法律(Luật)/ Law 国会(National Assembly) 最上位の基本ルール。「労働法」「企業法」「投資法」など。大まかな方針や権利義務を宣言するが、具体的な手続きは書かれていない。
2 政令(Nghị định)/ Decree 政府(首相) 法律を実行するためのガイドライン。法律を少し具体化するが、現場レベルの手続きはまだ不十分。新法ができても政令が未発行のため手続きがストップすることが頻発する。
3 通達(Thông tư)/ Circular 各省庁(財務省、労働省等) 現場レベルの「超具体的な実務マニュアル」。会計帳簿のフォーマット、税金の計算方法、社会保険料の料率、就業規則の必須項目など、管理部門が日常的に参照するルールのほぼすべてがここに規定される。
4 公文(Công văn)/ Official Letter 管轄の行政当局(地方税務署、労働局等) 企業からの個別の問い合わせに対する「回答書」や当局からの「指導書」。通達でも解釈が分かれるグレーゾーンについて、管轄当局がどう判断したかが記される。実務上はこれが最も強い効力を持つ。

なぜ「法律」だけ読んでも実務が回らないのか

日本の法律は、それ自体がかなり詳細に規定されており、法律の条文を読めば「何をすべきか」が概ね明確になる。ところがベトナムの法律(Luật)は、あくまで国家の理念や大枠の方針を宣言したものに過ぎない。

具体例を挙げよう。ベトナムの会計基準(VAS)に沿って会計システムを構築する際、「ベトナムの会計法にどう書いてある?」と考えるのは自然だ。しかし、実際にシステムの要件定義をするために必要な「勘定科目のコード」や「財務諸表のテンプレート」は、法律にも政令にも一切載っていない。財務省が発行している通達(Circular)── 2025年末まではCircular 200/2014/TT-BTC、2026年1月以降はCircular 99/2025/TT-BTC ──を読み込まなければ、実務は1ミリも進まないのだ。

「公文」(Công văn)の決定的な力

通達でさえ曖昧な表現が残されていることが多く、解釈が分かれるケースが日常的に発生する。その際、企業が管轄の当局に「自社のケースではどう扱えばよいか?」と問い合わせると、当局から個別の回答書(Công văn)が送られてくる。

ここで重要なのは、A省の税務署が出した回答と、B省の税務署が出した回答がまったく異なることが日常茶飯事だという点だ。しかし、管轄地域においては、その現場の担当局が出した公文や窓口での指導こそが、実務上もっとも優先されるルールとなる。

日本では、東京国税局の見解と大阪国税局の見解が大きく食い違うことはまずない。しかしベトナムでは、「ハノイの税務署ではOKだったのに、別の省の税務署ではNGと言われた」という事態が構造的に発生する。これは行政官の怠慢ではなく、法令の曖昧さと地方分権の組み合わせから生じる制度的な特徴だ。

なぜ「判例」が日本のようには使えないのか

「過去の裁判例を根拠にして当局と戦えないのか?」という疑問もあるだろう。これに対する回答は2つある。

第一に、ベトナムは判例法の国ではない。ベトナムは成文法主義(旧ソ連型の法体系)であり、英米法のように「過去の判例が法的な拘束力を持つ」システムではない。近年、最高人民法院が「判例(Án lệ)」として一部の裁判例を公開・参照するようになったが、数は非常に限定的であり、日本の判例ほどの絶対的な効力はない。

第二に、行政の力が司法を上回る。行政の裁量(公文や窓口指導)に対して、「過去の別の裁判ではこうだった」と司法の論理を持ち込んでも、現場の行政官は自らの省庁や局の内部ルールを優先する。行政の判断を裁判で覆すことは物理的には可能だが、莫大な時間とコストがかかり、その後の当局との関係悪化というカントリーリスクを背負うことになる。

第4章 「法の支配」と「法による支配」の比較

項目 法の支配(Rule of Law)日本・欧米 法による支配(Rule by Law)ベトナム
法と権力の関係 法 > 国家権力。法が権力を制限する 国家権力 > 法。法は統治のツール
法の目的 個人の権利・自由を守る 国家目標の達成と秩序維持
司法の独立 政府から完全に独立。違憲審査権あり 党の指導下に置かれる。独立した違憲審査機関なし
法律の具体性 法律自体が詳細。条文で実務がわかる 法律は大枠のみ。通達・公文が実務を規定
判例の機能 事実上の法的拘束力。解釈を安定させる 限定的な参考資料。行政の裁量が優先
法令変更のスピード 立法プロセスに時間がかかる。予測可能性が高い トップダウンで極めて速い。突然の変更リスクあり
紛争解決の主戦場 裁判所(訴訟) 行政との直接交渉。仲裁機関(VIAC等)
企業のコンプライアンス戦略 法律と判例に基づく事後的な法的防御 行政との関係構築と事前のリスク管理

第5章 「法による支配」の国で外資企業が取るべきコンプライアンス戦略

ベトナムの法体系の構造を理解した上で、外資企業が取るべき実務的な戦略を整理する。

戦略1:通達(Circular)を「真のルールブック」として管理する

法律(Luật)や政令(Nghị định)は大枠の方針であり、実務の根拠にはならないことが多い。管理部門として日常的にフォローすべきは通達(Thông tư)だ。特に以下の通達は、外資企業の管理部門にとって「聖典」に等しい重要度を持つ。

  • Circular 99/2025/TT-BTC:企業会計制度(2026年1月施行。Circular 200を完全置換)
  • Circular 111/2013/TT-BTC:個人所得税(PIT)の実施ガイダンス
  • Circular 78/2014/TT-BTC:法人税(CIT)の実施ガイダンス
  • Circular 219/2013/TT-BTC:付加価値税(VAT)の実施ガイダンス

戦略2:管轄当局の「公文」(Công văn)を蓄積する

自社を管轄する税務署や労働局が出した公文を、日付・内容・担当者名とともにデータベース化しておく。これは将来の税務調査や労務紛争において、「当局自身がそう指導した」という証拠になる。公文は企業にとっての「保険」だ。

戦略3:「問題が起きてから法律で戦う」のではなく「問題が起きる前に管理する」

欧米型のコンプライアンスは「法律を遵守し、違反があれば法廷で争う」という事後的な対応が中心だ。しかしベトナムでは、裁判による解決が機能しにくい以上、問題を予防することが最も重要な企業防衛戦略となる。

  • 就業規則を法的要件を満たした形で登録する:登録していない就業規則に基づく懲戒処分は無効とされる(本ガイド「就業規則の法定要件と労働組合」参照)
  • 損金算入の三点セット(電子インボイス・銀行振込証明・契約書)を徹底する:1枚の書類の不備で経費全額が否認されるリスクがある(本ガイド「法人税(CIT)の申告・納付と損金算入要件」参照)
  • 移転価格文書を設立初年度から整備する:ベトナムでは日本のような適用除外の閾値が事実上なく、関連者間取引がある企業は広く対象になるとされる(本ガイド「移転価格(Transfer Pricing)規制」参照)

戦略4:法改正への高速対応体制を構築する

ベトナムでは、党や政府の決定が法令に反映されるスピードが極めて速い。2023年から2026年にかけて、投資法、法人税法、会計通達、土地法、VAT法といった主要法令が軒並み改正された。「去年のルールで今年の申告をしたら否認された」という事態はベトナムでは日常だ。

外部の会計事務所や法律事務所からの法改正アラートを受け取る仕組みを構築し、影響の大きい改正については社内規定・業務フローへの反映を迅速に行う体制が不可欠だ。

日本との違い ── 「日本の常識が通じない」ポイント

テーマ 日本 ベトナム
国家権力の構造 三権分立(行政・立法・司法が対等に牽制) 民主集中制(共産党の下に行政・立法・司法が配置)
法と権力の関係 法律が権力を制限する(Rule of Law) 権力が法律をツールとして使う(Rule by Law)
法律の具体性 法律の条文自体が詳細で、実務の根拠になる 法律は大枠のみ。実務は通達(Circular)と行政の裁量で運用
判例の役割 事実上の法的拘束力を持ち、法解釈を安定させる 限定的な参考資料。行政の裁量が判例に優先する
法令解釈の統一性 全国でほぼ統一的に解釈・運用される 省ごと・担当者ごとに解釈が異なることが構造的に発生
紛争解決の主な手段 裁判所への訴訟が有効な選択肢 行政との直接交渉、仲裁(VIAC等)が実務的
コンプライアンスの基本姿勢 法律と判例に基づく事後的な法的防御 行政との関係構築による事前のリスク管理
法改正のスピード 国会審議を経るため予測可能性が高い トップダウンで極めて速く、突然の変更がある

まとめ:本ガイドを読むための前提

  1. ベトナムは「法による支配」の国である。法律は国家権力を縛る盾ではなく、党と国家が社会を統治するためのツールとして機能する。この前提を理解していないと、本ガイドの各テーマで解説する法令の意図と運用が正しく読み取れない。

  2. 法律よりも通達と公文が実務を支配する。「法律にどう書いてあるか?」ではなく「管轄当局の最新の通達と窓口指導がどうなっているか?」が、ベトナムにおける法的判断の出発点だ。

  3. 判例は日本のようには機能しない。判例法主義の国ではないこと、そして司法が行政と対等な独立機関ではないことから、「過去の裁判例を盾に戦う」という日本的なアプローチはベトナムでは有効性が限定的だ。

  4. コンプライアンスの主戦場は「法廷」ではなく「行政との関係」にある。管轄当局との良好な関係を維持し、社内規定と業務フローを通じてグレーゾーンをコントロールすることが、ベトナムにおける最も効果的な企業防衛戦略である。

  5. 法改正のスピードに備える。2023年から2026年にかけての法改正ラッシュが示すように、ベトナムでは「昨年のルール」が「今年は通用しない」ことが頻繁にある。法改正への高速対応体制は、経営インフラとして整備すべきものだ。

以上の前提を踏まえた上で、次章以降の各テーマへ進んでいただきたい。


参照時点と主要根拠法令

本記事は2026年3月時点の調査に基づいています。法令は改正されるため、実務の判断は現行の一次資料で確認してください。

主要根拠法令: ベトナム社会主義共和国憲法(第4条)/Circular 200/2014/TT-BTC(企業会計制度・2025年末まで)/Circular 99/2025/TT-BTC(企業会計制度・2026年1月施行)/Circular 111/2013/TT-BTC(個人所得税)/Circular 78/2014/TT-BTC(法人税)/Circular 219/2013/TT-BTC(付加価値税)

※本稿は一般的な情報提供であり、個別の法的助言を構成するものではない。具体的な対応にあたっては専門家への相談を推奨する。