きっかけは「あの人は今?」:2001年まで生きていた南ベトナム大統領

ベトナム戦争でサイゴン陥落の9日前まで大統領だった南ベトナムの指導者、グエン・バン・チュー(Nguyễn Văn Thiệu、阮文紹)。革命や戦争が終わった後は、負けた方の指導者はだいたい同じ運命を辿っているので、当然同じ道を辿ったのだと思っていた。しかし、調べてみると、彼が2001年まで生きていたことを知り、大きな驚きを感じました。サイゴン陥落後、彼はどのような人生を送ったのでしょうか? この疑問が、彼の生涯を詳しく知りたいと思ったきっかけです。

グエン・バン・チュー(1923年-2001年)は、ベトナム戦争が最も激化した時代(1967年-1975年)にベトナム共和国(南ベトナム)の第二代大統領を務め、最も長くその地位にあった人物です。彼は、激しい紛争と政治的混乱の時代において、中心的でありながらも物議を醸す役割を果たしました。

本稿は、彼の全生涯を探求し、特に大統領退任後のしばしば見過ごされがちな、26年にも及ぶ亡命生活にも光を当てることで、その全体像を提供することを目的とします。

チューを巡る評価は分かれています。ある者は彼を、不可能な状況下で国を導いたナショナリストの指導者と見なし、またある者は、その指導力が南ベトナム崩壊の一因となった権威主義的な人物と見なします。

表1:グエン・バン・チューの生涯における主要な出来事の年表

年代出来事
1923年4月5日中部ベトナム、ニントゥアン省ファンラン近郊で誕生
1945年ホー・チ・ミンのベトミンに参加
1946年頃ベトミンから離反、フランス支援のベトナム国軍に参加
1949/51年ダラットの国軍士官学校卒業
1957年, 1960年アメリカで軍事訓練を受ける
1963年11月ゴ・ディン・ジェム打倒クーデターに参加1965年6月国家指導評議会議長(国家元首)に就任
1967年10月大統領に選出
1968年テト攻勢
1971年10月大統領に再選(無投票)
1973年1月パリ和平協定に署名
1975年4月21日大統領を辞任
1975年4月30日サイゴン陥落
1975年-2001年台湾、イギリス、アメリカで亡命生活
2001年9月29日アメリカ、マサチューセッツ州ボストンで死去

革命から軍へ:若き日のチュー、権力への階段

グエン・バン・チューは、1923年4月5日、フランス領インドシナ中部、ニントゥアン省のファンラン近郊チートゥイ村で生まれました。彼の家は、農業と漁業で生計を立てる、裕福な小地主でした。5人兄弟の末っ子として育ちました。一部の報告では生年を1924年とするものもありますが、より縁起が良いとして1923年4月5日を採用したとされます。兄たちが資金を工面し、彼は当時のベトナムの宗主国であったフランスが運営するエリート学校、具体的には阮朝の都フエにあったカトリック系のペルラン学校で教育を受けました。

第二次世界大戦終結後の1945年、チューはホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟会(ベトミン)に参加し、地区の責任者にまで昇進しました。しかし、わずか1年後の1946年、フランス軍が南ベトナムに戻りベトミンの支配に対抗し始めると、彼は組織を離脱しました。後のインタビューで彼は、「ベトミンが共産主義者であることは知っていた…彼らは人々を撃ち、土地を奪い、村の委員会を転覆させた」と述べ、その蛮行に幻滅したと語っています。このベトミンでの短い経験と、共産主義者の手法に対する個人的な嫌悪感は、彼の後の強固な反共産主義、そして交渉や妥協を拒否する姿勢を形成する上で重要な役割を果たしたと考えられます。また、革命的戦術や潜在的な破壊工作を直接見聞きした経験は、後に指摘される彼の猜疑心の一因となった可能性もあります。

ベトミン離脱後、チューはサイゴンに移り、フランスが支援するベトナム国の軍隊に加わりました。当初は商船学校に入学しましたが、後にダラットの国軍士官学校(National Military Academy)に転校しました。資料によって卒業年は若干異なるが(1948年、1949年、または1951年)、第一期生として卒業し、ベトナム国軍(VNA)の少尉に任官されました。

軍人としてのキャリアは、ベトミンと戦う歩兵小隊長から始まりました。彼は優れた戦略家として知られるようになったが、同時に慎重であり、勝利がほぼ確実でない限り攻撃を避ける傾向がありました。フランス(1949年、コアキダンの歩兵学校)とハノイ(参謀大学)でさらなる軍事訓練を受けました。1954年には少佐として大隊を指揮し、故郷ファンランからベトミン部隊を駆逐しました。この際、彼らはチューの実家に立てこもったが、彼はためらうことなく自身の家を攻撃したといいます。1956年以降はゴ・ディン・ジェム政権下で軍務を続け、1957年(または1958年)にはアメリカのカンザス州フォート・レブンワースにある陸軍指揮幕僚大学で、1959年(または1960年)にはテキサス州フォート・ブリスで兵器訓練を受け、沖縄の太平洋軍統合・共同計画学校でも学びました。

初期の人物評としては、「洗練された都会育ちの将校志望者とは異なる、田舎者」と見なされていました。また、フランス人船主との給与を巡る争いをきっかけに、外国人に対する不信感を抱くようになったとされます。これは、後に彼が大統領としてアメリカとの関係を築く上で、猜疑心として現れることになりました。

1960年にゴ・ディン・ジェム大統領に対して起こったクーデター未遂事件では、チューは当初所属していた第7師団(後に第5師団)の部隊をサイゴン北方のビエンホアから派遣し、大統領官邸の包囲を解くことに貢献し、ジェム政権の維持に役割を果たしました。

激動の時代:クーデターと権力掌握の狭間で

1963年11月、グエン・バン・チューは、ゴ・ディン・ジェム大統領を打倒し殺害した軍事クーデターにおいて、「重要な」あるいは「鍵となる」役割を果たしました。当時、彼はサイゴン北方のビエンホアに駐屯する第5歩兵師団の司令官でした。彼の具体的な行動は、自身の師団の戦車、大砲、部隊を動員し、大統領官邸(ザーロン宮殿)への攻撃に参加させることであった。彼は攻撃の最終段階を命じたとされます。このクーデターにおける彼の直接的な指揮官としての役割は、以前の慎重な評判や、1960年にジェムを 擁護 した行動からの決定的な転換を示すものです。これは、彼の野心の高まりと、キャリアアップのために権力構造の変化に現実的に適応する意欲を示唆しています。

クーデター成功後、チューは軍事革命評議会によって将軍に昇進しました。彼は軍事革命評議会の書記長にも就任しました。クーデターを主導したズオン・バン・ミン将軍は、チューが宮殿攻撃を遅らせたことがジェムの死につながったと非難しましたが、チューはこれを強く否定し、ジェム殺害の責任はミンにあると主張しました。彼の昇進は、この権力闘争における賭けが成功したことを示しています。

クーデター後の南ベトナムは、1964年から1965年にかけて極度の政治的不安定に見舞われ、ミン、グエン・カーン、ファン・カク・スーなど、指導者が次々と交代するクーデターが頻発しました。この混乱期に、チューは第2軍管区副司令官、第21師団長、ダラット士官学校長、第1師団長、第5師団長、統合参謀本部議長、国防副大臣、第4軍団長、そして1965年にはファン・フィ・クアト政権下で副首相兼国防相など、様々な要職を歴任しました。

彼は、グエン・カオ・キを含む、より若く野心的な将校グループ(「若手将校グループ」、"Young Turks")の一員として台頭しました。そして、1965年6月、クアト文民政権を打倒した軍事クーデター(または権力移行)に参加しました。

この結果、1965年6月に樹立された新たな軍事政権において、チューは国家指導評議会議長(事実上の国家元首)に就任し、キは首相(中央執行委員会委員長)となりました。これにより、ジェム暗殺以来続いていた指導者交代の連鎖は一時的に終止符が打たれました。

大統領の座:栄光と苦悩、そして「小さな独裁者」の影

アメリカからの立憲統治への移行圧力の下、1967年に大統領選挙が実施されることになりました。チューは、グエン・カオ・キを副大統領候補として選挙に臨みました。選挙の結果、チューは得票の過半数には満たなかったものの、最多得票(資料により34%、35%、38%と差異あり)を獲得して当選し、1967年10月31日に大統領に就任しました。この選挙は高い投票率を記録し、1955年のジェムの98%当選よりは信頼性があると見なされたものの、依然として軍内部の権力闘争とアメリカの影響下で行われたものでした。

チューとキの組み合わせは、軍部の統一戦線を示すものでしたが、内部には対立の火種がくすぶっていました。1965年から67年にかけて首相としてより目立っていたキは、大統領職を望んでいましたが、軍内部の調整と、軍事評議会を通じて影響力を保持できるという約束のもとで、不承不承ながら副大統領候補の座を受け入れました。このため、チューは当選直後から権力基盤の強化とキの影響力排除に動き出すことになりました。

チューは徐々にキとその支持者を政権の中枢から遠ざけました。有能さよりも自身への忠誠心を優先して高官や軍司令官を任命する傾向が見られました。反体制派や報道機関への弾圧も強化し、民衆からは「小さな独裁者」と揶揄されるようになりました。クーデターへの警戒心から猜疑心が強まり、周囲をイエスマンで固めるようになったとされます。

1968年の旧正月(テト)に、共産主義勢力は南ベトナム全土の都市に対して大規模な攻勢(テト攻勢)を開始しました。当時、チューはテトを祝うため首都を離れていましたが、サイゴンに残っていたキが事態の収拾に当たり、一時的にその存在感を高めました。テト攻勢は共産主義勢力にとっては軍事的な大敗北でしたが、南ベトナム国民とアメリカ世論にとっては、チュー政権の脆弱性を露呈する心理的な打撃となりました。民間人の死傷者や避難民が急増し、政府への信頼は揺らぎました。しかし、この危機は逆説的にチューの政治的立場を強化する結果をもたらしました。彼は戒厳令を布告し、それまで議会で否決されていた大規模な兵力動員法案を可決させ、軍の規模を90万人以上に増強しました。また、この機に乗じてキ派の勢力を軍や政権内から一掃し、報道機関への統制を強めるなど、国家安全保障を名目に権力を一層集中させました。

統治スタイルとしては、徹底した反共主義を貫き、当初は北ベトナムや解放民族戦線(ベトコン)との交渉を否定していました。1970年1月のテレビ演説では、「南ベトナム政府は南ベトナム国民の97%を支配下においている。共産側はすでに弱体化しており、70年中に新たな全面攻勢をかけてくることはあるまい」と楽観的な見通しを示しました。しかし、同年同月の記者会見では、「中立主義あるいは連合政権を主張する素朴な民族主義者たちは、共産主義者か親共産主義者である」と述べ、いかなる妥協も許さない姿勢を明確にしました。一方で、アメリカの顧問ロイ・プロスターマンの提案に基づき、1970年から1973年にかけて「耕作者に土地を(Land to the Tiller)」計画と呼ばれる大規模な農地改革を実施しました。これは、地主から土地を買い上げて(費用の一部はアメリカが負担)、小作人に分配することで、農村部における共産主義勢力の影響力を削ぎ、農民の支持を獲得することを目的とした重要な政策でした。

しかし、彼の政権は汚職の問題にも深く蝕まれていました。汚職が蔓延し、黙認あるいは助長されていると非難され、有能さよりも忠誠心のある人物が軍司令官などに任命されることが多かった。これは軍の士気と戦闘能力を低下させ、アメリカとの関係にも悪影響を与えました。アメリカ政府は高官レベルの汚職対策を進めるよう圧力をかけ、「高官レベルの汚職に対処できないことは、我々アメリカがあなた方を助ける能力に著しく影響を与えている」と警告しました。具体的な問題としては、闇市場での通貨取引やタバコの密輸などが指摘されています。また、ホアン・スアン・ラムのような無能な司令官の起用が大きな軍事的失敗につながった例もあります。

1971年の大統領選挙では、チューは再選を目指しましたが、対立候補たちが選挙の不正操作を懸念して立候補を取り下げたため、事実上信任投票となりました。彼は投票率87%で94%の票を獲得したと発表されたが、この結果は広く不正であると見なされました。これにより、彼の権威主義的なイメージはさらに強まりました。

チューの大統領在任期間は、アメリカ軍の大規模な介入と、それに続くニクソン政権下での「ベトナム化」政策による段階的な撤退と重なっていた。南ベトナムの存続はアメリカの軍事・経済援助に大きく依存しており、チューはアメリカ軍撤退後の国の将来について懸念を表明し、継続的な支援の必要性を訴えていた。両国の関係は、依存、圧力、そして最終的には深い不信感へと至る複雑なものであった。

迫りくる危機:和平協定への抵抗と見捨てられた同盟国

1972年後半、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問との間で交渉されたパリ和平協定案に対し、グエン・バン・チューは激しく反対しました。彼の主な反対理由は、(1) 北ベトナム軍(PAVN)部隊の南ベトナム領内からの撤退が規定されていないこと、(2) 共産主義者(解放民族戦線)を含む「民族和解評議会」設置の可能性があり、これが事実上の連立政権につながり、最終的には共産主義者による国家乗っ取りを招くと考えたこと、(3) 南ベトナムの主権と領土保全が十分に保障されていないこと、でした。彼はまた、ベトコンの臨時革命政府(PRG)を交渉の当事者として認めることを拒否しました。

チューの反対により協定の署名は遅れました。アメリカのニクソン政権は、ベトナムからの早期撤退を望んでおり、チューに対して援助停止を示唆する(「交渉か、さもなくば見捨てる」)などの強大な圧力をかけ、同時に北ベトナムが協定に違反した場合にはアメリカが軍事力で対抗するという個人的な保証(秘密の約束)を与えることで、彼の同意を迫りました。チューは、この協定が南ベトナムを「売り渡す」ものだとキッシンジャーに直接抗議し、「もしあなたがこの協定を受け入れるなら、それはあなたが南ベトナムを北ベトナム共産主義者に売り渡すことを受け入れることを意味する。私に関して言えば、もし私がこの協定を受け入れるなら、私は南ベトナム人民とその領土を共産主義者に売り渡す裏切り者となるだろう」と述べたとされます。しかし、最終的にはアメリカの圧力と、見捨てられることへの恐怖から、不承不承ながら協定を受け入れました。協定は1973年1月27日に正式に署名されました。この和平協定は、アメリカにとっては(「名誉ある撤退」という)自国の戦略的目標達成を意味しましたが、チューにとっては南ベトナムの存続そのものを危うくするものであり、両国の国益の根本的な乖離を露呈しました。チューが予測した通り、この協定は南ベトナムの破滅につながるものでしたが、超大国の政治力学の前には、南ベトナム自身の運命を決定する力はなかったのです。

協定締結後、停戦は即座に双方によって破られました。北ベトナムは南ベトナム領内に留まった部隊を再編・増強し、支配地域を拡大する機会をうかがいました。チューはこれに対し、「四つのノー」(共産主義者との交渉拒否、共産主義者の政治活動容認拒否、連立政権拒否、領土割譲拒否)と呼ばれる強硬路線を維持しました。

一方、アメリカ国内では、ウォーターゲート事件や反戦感情の高まりを受け、議会がインドシナにおける更なる米軍の軍事行動を禁止する法案(ケース・チャーチ修正条項、戦争権限法)を可決しました。南ベトナムへの軍事・経済援助も大幅に削減され、南ベトナム軍(ARVN)の燃料、弾薬、予備部品などが深刻に不足し、その戦闘能力は著しく低下しました。

涙の演説と脱出:サイゴン陥落、その最後の数日間

1975年初頭、北ベトナムは大規模な最終攻勢を開始しました。1月にフオックロン省が陥落しましたが、アメリカからの軍事的反応がなかったことで、北ベトナム指導部はアメリカが再介入しないことを確信しました。

増大する軍事的圧力とアメリカからの援助打ち切りの見通しに直面し、チューは1975年3月、戦略的な大失敗となる決断を下しました。彼は、中部高原(プレイク、コントゥム)を放棄し、部隊を南部の沿岸地域に集中させて防衛線を縮小するという「頭を軽く、尻を重く(Light at the top, heavy on the bottom)」戦略を採用したのです。理論上は限られた資源下での合理的な判断に見えるかもしれないが、この撤退作戦は計画の不備、秘密主義、そしてチュー自身の優柔不断さによって悲惨な結果を招きました。撤退命令は遅きに失し、多くの部隊や民間人に十分伝達されず、指定された撤退路(国道7B号線)は劣悪な状態でした。数十万の兵士と避難民が入り混じった混乱した撤退行となり、北ベトナム軍の追撃を受けて壊滅的な損害を出した(「涙の輸送団」)。この結果、ARVN第2軍団は事実上崩壊し、南ベトナム軍全体の士気は決定的に打ち砕かれました。これは、戦略立案だけでなく、危機的状況下における指導力と作戦指揮能力の欠如を示すものであり、チューの決断と統治スタイルが直接的な原因でした。

中部高原の放棄に続き、北部でも同様の混乱が起こりました。チューからの矛盾した命令(フエは「どんな犠牲を払っても」保持するとラジオで宣言した数時間後にダナンのみの防衛命令を出すなど)により、ARVN第1軍団も統制を失い、フエ(3月24日)、ダナン(3月29日)が相次いで陥落しました。ダナンでは略奪や無秩序状態が発生し、海からの脱出も大混乱となり、多くの兵士や市民が犠牲となりました。大量の軍事物資が北ベトナム軍の手に渡りました。ファンランが陥落した際には、撤退する兵士たちがチュー一族の祠や墓を破壊し、彼への怒りを露わにしたといいます。

北ベトナム軍は破竹の勢いで南下し、サイゴンに迫りました。スアンロクでのARVN第18師団による激しい抵抗は一時的に進撃を遅らせましたが、大勢を覆すことはできませんでした。

圧倒的な軍事的敗北と、国内外からの交渉の道を拓くための辞任圧力(元同盟国やアメリカからの示唆もあったとされる)に直面し、チューは1975年4月21日に大統領職を辞任しました。

辞任演説は、テレビで全国に放送され、感情的で、時に涙ながらの2時間に及ぶものでした。彼は、中部高原と北部からの撤退を自ら命じたことを初めて認めたが、その失敗の責任は現場の軍司令官にあると非難しました。そして、アメリカ合衆国に対して痛烈な批判を展開し、約束を破り、援助を打ち切ったことを「非人道的」、「無責任」な「同盟国」であり、「逃亡した」と激しく罵りました。彼は、「あなた方アメリカ人はベトナムに50万人の兵士を駐留させていた!あなた方は敗北したのではない…逃げ出したのだ!」と叫びました。さらに、「奇跡で戦うのではなく、高い士気と勇気が必要です。しかし、たとえ勇敢であっても、ただそこに立って敵を噛み付くことはできません。そして、私たちはロシアと中国と戦っています。私たちはアメリカからの援助を市場で魚を値切るように交渉しなければならず、あなた方[南ベトナムの兵士と市民]の命がかかっているのに、数百万ドルのためにこの交渉を続けるつもりはありません」と述べ、援助削減への不満を露わにしました。特にキッシンジャー国務長官と、南ベトナムを死に至らしめたと彼が考えるパリ和平協定を名指しで非難し、「そのような優秀な国務長官が、我々を死に至らしめる条約を生み出すとは決して思わなかった」と語りました。さらに、国内外の報道機関が、自身の政権の汚職や腐敗を報じることで軍の士気を低下させたと非難しました。後任にはチャン・バン・フォン副大統領が就任しました。

辞任から5日後の4月25日(または26日)、チューはアメリカ軍機(C-118またはC-141)で南ベトナムを脱出し、最初の亡命先である台湾へ向かいました。この際、彼が大量の金塊(3.5トンから16トンという説があるが、確証はない)を持ち出したという疑惑が報じられました。サイゴンは、彼が国を去った数日後の1975年4月30日に陥落しました。

台湾、イギリス、そしてアメリカへ:26年間の静かな亡命

サイゴン陥落直前に南ベトナムを脱出したグエン・バン・チューは、まず台湾に亡命しました。当初は台湾にいた弟グエン・バン・キエウの家に身を寄せましたが、その後台北市内の天母地区に家を借りて住みました。この時期、彼はうつ病に苦しんでいたと報じられています。

台湾での短い滞在の後、チューはイギリスに移住しました。息子がイートン校に留学しており、ロンドン郊外のキングストン・アポン・テムズに家を所有していたことが、ビザ取得の理由となりました。イギリスでは非常に目立たない生活を送り、1990年にはイギリス外務省ですら彼の私生活や所在に関する情報を持っていなかったとされるほどでした。

1990年代初頭、チューはアメリカ合衆国マサチューセッツ州に移り、ボストン近郊のフォックスボロ、後にニュートンに居を構えました。ここでも彼は隠遁生活を送り、自伝を出版することはなく、インタビューや訪問者をほとんど避けました。近隣住民は、彼が犬の散歩をしている姿を見かける程度で、彼がかつての南ベトナム大統領であることを知る者も少なかったといいます。しかし、例外的に1979年に西ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』のインタビューに応じ、1980年にはドキュメンタリー番組『ベトナム:1万日の戦争(The Ten Thousand Day War)』に出演し、大統領時代の経験について語っています。

彼が公の場に出ることを避けたのは、南ベトナムを見捨てたと考える人々(特に海外のベトナム人コミュニティ)からの敵意や報復を恐れていたためとも言われます。1992年のボストン・グローブ紙のインタビューでは、同胞からの批判を認めつつも、「あなた方は南ベトナム崩壊の責任は私にあると言い、私を批判するだろう。私はそれを許す。あなた方が私よりも良い結果を出すのを見たい」と語っています。彼は生涯を通じてベトナム共産党政権の終焉を予測し続け、アメリカ政府に対してハノイとの国交正常化を行わないよう警告していました。アメリカとベトナム社会主義共和国との国交は1995年に樹立されました。チューは、共産主義体制が崩壊し「民主主義が回復」すれば故郷に帰ると述べていましたが、彼の存命中にそれが実現することはありませんでした。彼はまた、亡命者が帰国できるよう、ハノイとの和解交渉で難民コミュニティを代表することを申し出たが、受け入れられることはありませんでした。

彼の亡命生活は、かつて世界の舞台で中心的な役割を担った人物とは思えないほどの静寂に包まれていました。この劇的な変化は、敗北の苦渋、報復への恐れ、幻滅感、そして自らが指導した国家の崩壊という重荷など、複合的な要因から生じた深い心理的影響を示唆しています。かつての高い知名度から一転して25年以上にわたる隠遁生活を選んだことは、ベトナム戦争終結とその責任が彼に与えた衝撃の大きさを物語っています。

私生活では、1951年にメコンデルタ出身の裕福なカトリック教徒の家庭出身であるグエン・ティ・マイ・アンと結婚しました。チュー自身は1958年にカトリックの洗礼を受けています。夫妻には二人の息子(グエン・クアン・ロク、グエン・ティエウ・ロン)と一人の娘(グエン・ティ・トゥアン・アン)がいました。マイ・アン夫人は政治に関与せず、社会奉仕活動(病院設立など)に従事したことで知られます。一家は1975年に共に南ベトナムを脱出しました。夫の死後もマイ・アン夫人はアメリカで暮らし、2021年にカリフォルニア州サンディエゴ郡の自宅で亡くなりました。子供たちの亡命後の詳細な生活については、公になっている情報は限られています。

グエン・バン・チューは、2001年9月29日、マサチューセッツ州ニュートンの自宅で脳卒中の発作を起こし、ボストンのベス・イスラエル・ディーコネス医療センターに搬送された後、78歳で死去しました。遺体は火葬されたが、遺灰の所在は不明です。

歴史の審判:グエン・バン・チューが残したもの

グエン・バン・チューの生涯は、軍人としての台頭から、南ベトナムが最も危機的な時代に最も長く大統領を務めた指導者としての期間、物議を醸した統治、彼の政権下での国家崩壊、そして長く静かな亡命生活へと至る、波乱に満ちたものでした。

彼の歴史的評価は依然として複雑で、対立する見解が存在します。

肯定的な側面、あるいは酌量すべき点としては、度重なるクーデターの後、ある程度の政治的安定をもたらしたこと、容赦ない敵と、決定的に重要な同盟国からの支援衰退という困難な状況に直面していたこと、「耕作者に土地を」計画のような重要な改革を実行したことなどが挙げられます。戦時下という極限状況の中で、民主的な制度を構築しようと試みたという評価もあります。

一方で、否定的な評価としては、権威主義的な統治と反体制派の弾圧、国家と軍隊を弱体化させた蔓延する汚職、最終的な崩壊を招いた戦略的判断の誤り、そして有能さよりも忠誠心を優先する人事や深い猜疑心などが指摘されます。彼の妥協を拒む姿勢が、より早い段階での和平への道を閉ざした可能性も否定できません。

結論として、グエン・バン・チューは、ベトナム現代史において複雑かつ分裂的な人物であり続けます。彼の指導力は、ベトナム戦争、彼の揺るぎない反共産主義、アメリカとの困難な関係、そして最終的には彼が率いた国家の崩壊によって定義されます。彼の遺産は、ベトナム戦争そのものが残した未解決のトラウマと多様な視点を反映し、今後も議論され続けるでしょう。