天南の地に、なお燃ゆるもの

序章:千年の風圧

ベトナムという国を思うとき、私の脳裏には、粘り強く、容易に屈することのない人々の顔が浮かんでくる。この国の歴史は、まことに「抵抗」という二文字に集約されるといってよい。その精神が、あたかも大河の底を流れる伏流水のように、この国の通史をかたちづくってきたのである。

その源流を遡れば、漢の武帝がこの紅河デルタにその矛先を向けた紀元前111年に行き着く。以来、呉権という稀代の英雄が独立の旗を打ち立てる938年まで、およそ千年。この長大な歳月を、ベトナムの史家は「北属期」と呼ぶ。北、すなわち中国の王朝に隷属した時代、という意味である。

漢の支配は、単なる軍事占領ではなかった。彼らは、この肥沃なデルタ地帯に、自らの文明を容赦なく流し込んだ。新しい農耕技術、緻密な官僚制度、そして何より、漢字と儒教思想。これらは、現地の社会を根底から変えていった。しかし、それは一方的な同化を意味しなかった。むしろ、この長すぎた風圧こそが、ベトナムという民族に「我々は何者か」を問い続けさせ、その骨格を鍛え上げたのではあるまいか。支配者の文化を呑み込み、その制度を利用しながらも、決して魂までは売り渡さなかった。この粘り強い自負心こそが、のちにフランスを、そしてアメリカという大国をも手こずらせる精神の源泉となってゆく。千年におよぶ「闘争と復活」の物語は、ここから始まるのである。


第一章:象は嘶き、女は起つ

夫が、殺された。

その一報がメリンの地に届いたとき、徴側(チュン・チャク)という一人の女のなかで、なにかがぷつりと切れた。彼女は、この地の有力な雒将(ラック・トゥオン)の家系の出であり、誇り高い血を引いていた。漢の太守、蘇定。この男は、法を曲げて徴側の夫を処刑した。見せしめであった。土着の豪族たちよ、漢に逆らうな、という。

(…許さぬ)

その思いは、個人的な悲憤にとどまらなかった。当時の交趾郡では、漢から派遣された官吏だけでなく、その威を借りる商人やならず者までもが横行し、民の財産を貪っていた。特に、塩と鉄の専売は民の生活を直撃し、不満は沸点に達していた。徴側の怒りは、そのすべての怒りの導火線となったのである。

「姉上」

妹の徴弐(チュン・ニ)が、怒りに震える姉の背中に声をかけた。

「弐。兵を集めよ」

その声は、静かだが、鋼のように硬かった。

「象を。一番気性の荒い象を連れてまいれ」

もはや、多くの言葉は要らなかった。

姉妹が兵を挙げたとの報は、燎原の火のごとく駆け巡った。日頃から漢の支配に不満を抱いていた各地の雒将たちが、「待っていた!」とばかりにその旗の下に馳せ参じる。彼らは、漢の制度の下で力を削がれ、自らの土地と民を異民族に支配される屈辱に耐えかねていた。

どっ、と地響きがした。先頭に立つのは、二頭の巨象。その背には、金色の甲冑をまとった徴姉妹の姿があった。姉の徴側が、天に向かって長刀を突き上げる。

「行くぞ!漢の圧政より、我らの国を取り戻すのだ!」

うおおおっ、と数万の兵が鬨の声をあげた。それは、もはや軍勢というより、怒りの奔流であった。太守・蘇定が籠る城など、ひとたまりもない。蘇定は髪を剃り、僧の姿に身をやつして命からがら逃げ出したという。反乱軍は破竹の勢いで漢の拠点を六十五も呑み込んでいった。

勝利のさなか、姉の徴側は「微王」を称し、メリンに都を置いた。そして、民に対し二年間、一切の税と労役を免除することを布告した。人々は熱狂し、ついに自分たちの王を得たのだと歓喜に沸いた。束の間の、しかしあまりに鮮烈な光であった。

だが、漢帝国は、辺境の小さな火種を見過ごすほど甘くはない。後漢の光武帝は、宿将・馬援を「伏波将軍」に任じ、大軍を派遣した。馬援は、ただの武人ではない。巧みな戦略家であり、人心掌握術にも長けていた。彼は、海路と陸路から同時に進軍し、反乱軍の連携を断ち切る。そして、投降した者には寛大な処置をとる一方で、抵抗する者には徹底的な破壊をもって臨んだ。

浪泊(ランバック)の地で、両軍は激突した。徴姉妹の軍は奮戦するも、組織的な訓練と豊富な物資を誇る漢の正規軍の前に、次第に追い詰められてゆく。数千の首級があがり、反乱軍は壊滅した。

姉妹の最期は、伝説のなかに溶けている。馬援の軍に捕らえられることを潔しとせず、喝門(ハットモン)の川に身を投げ、その魂をこの国の水脈に宿した、と人々は語り継いだ。

反乱は、こうして鎮圧された。馬援は、抵抗の象徴であった銅鼓をことごとく溶かし、巨大な銅の柱を立てたという。「この柱が倒れぬ限り、交趾の民は滅びる」という呪いの言葉とともに。だが、彼は見誤っていた。物理的な象徴を破壊しても、人々の記憶までは消せぬことを。むしろ、この悲劇的な結末こそが、徴姉妹を単なる反乱者から、民族の魂に刻まれる不滅の英雄へと昇華させたのである。


第二章:闇の中の群星

徴姉妹の炎が消えた後、ベトナムは再び長い闇のなかに沈んだ。だが、完全な闇ではなかった。時折、闇を切り裂くように、一閃の光芒が走る。

六世紀、李賁(リー・ボン)という男がいた。彼は、中国からの移民の家系に連なる地方官吏であったが、その心にはベトナムの地への愛着が宿っていた。彼は、南朝梁の交州刺史・蕭諮の暴政に憤りを覚えていた。蕭諮は、現地の有力者を登用せず、自らの縁者ばかりを重用し、民を顧みなかった。

(このままでは、この地は腐り果てる)

李賁は、各地の豪族に檄を飛ばし、兵を挙げた。そして、544年、彼は国号を「万春」と定めた。永遠の春。その夢の大きさこそが、彼の非凡さであった。そして、自らを「南越帝」と称した。漢の皇帝に対し、我もまた帝である、と。これは、徴姉妹の「王」より、さらに一歩踏み込んだ、明確な主権国家の宣言であった。彼は独自の年号「天徳」を定め、中央集権的な国家体制の構築を目指した。

しかし、その夢もまた、北からの軍靴の響きによって打ち砕かれる。梁に代わって勢力を伸ばした陳が、大軍を差し向けたのだ。李賁は、ゲリラ戦で粘り強く抵抗するも、最後は病に倒れる。彼の死後、後継者たちは内紛に明け暮れ、ついに602年、中国を統一した隋によって万春国は滅ぼされた。だが、その試みは、ベトナム史に「最初の独立王朝」として、確かな光跡を残した。

さらに八世紀、梅叔鸞(マイ・トゥック・ロアン)という男も立った。この男は、貧農であった。彼を怒らせたのは、高尚な理念ではない。ライチである。唐の宮廷の楊貴妃が好んだという、その果実を運ぶための、耐えがたいほどの労役であった。

「俺たちの汗と涙の味を、長安の貴族どもは知るまい」

その民としての怒りが、彼を「黒帝」たらしめた。肌が黒かったことから、そう呼ばれたという。彼は、南のチャンパ王国や、西のクメール王国とも連携し、一時的に唐の都護府を陥れるほどの勢いを見せた。農民の帝王。彼の反乱もまた鎮圧されるが、その存在は、この国の抵抗が、常に民衆の足元から生まれることを証明していた。

馮興(フゥン・フン)の反乱、その他、歴史の表層には現れにくい無数の小さな抵抗。それらは一つ一つが敗北に終わったとしても、無意味ではなかった。むしろ、この絶え間ない抵抗の連鎖こそが、ベトナムという民族のアイデンティティを溶解させることなく、その芯を守り抜く防波堤となったのである。


第三章:白藤江に日は昇る

いかなる長大な夜にも、必ず終わりは来る。十世紀、栄華を誇った唐が、内部から崩壊し始めたのである。中原が乱れれば、天の南の地は自由になる。その理を、この国の者たちは皮膚感覚で知っていた。

その機を捉えたのが、在地土豪の曲承裕(クック・トゥア・ズー)であった。彼は、唐の権威が衰えたのを見て取り、巧みに立ち回り、中国から派遣される節度使に代わって、自らがその地位に就いた。これは、武力による反乱ではなく、政治的な手腕による、事実上の独立であった。彼は、独自の行政改革を進め、独立国家としての基礎を築き始めた。

しかし、独立への道は血塗られていた。曲氏の政権は、南の広州に勃興した南漢の攻撃で倒れる。だが、その部下であった楊廷芸(ズオン・ディエン・ゲ)が、今度は南漢軍を打ち破り、再び節度使を自称した。まさに、倒れても倒れても立ち上がる、この国の精神そのものであった。

だが、最大の敵は、時に内側にいる。楊廷芸は、部下の矯公羨(キエウ・コン・ティエン)に暗殺された。権力欲に目がくらんだこの裏切り者は、自らの地位を安泰にするため、あろうことか宿敵である南漢に援軍を求めたのである。千年の悲願が、内輪の裏切りで水泡に帰すのか。

「させぬ」

立った男がいた。呉権(ゴ・クエン)。楊廷芸の娘婿であり、最も信頼された部将であった。虎のごとき風貌のこの男は、しかし、その眼の奥に氷のような冷静さを宿していた。彼はまず、裏切り者の矯公羨を討ち、国内を固めた。そして、迫りくる南漢の大軍を迎え撃つ。

南漢の皇帝・劉龑(りゅうげん)は、息子の劉弘操に大水軍を預け、自らも国境まで軍を進めた。慢心があった。辺境の小競り合い、と。

呉権は、白藤江の河口を見つめていた。

(…川だ。この川が、我らの城となる)

彼は、この地の潮の干満が極端に激しいことを熟知していた。

「杭を打て。川底に、無数の杭を。その先を鋭く削り、鉄の板で覆うのだ」

その命令は常軌を逸していた。だが、兵も、民も、黙々とそれに従った。この戦に、この国のすべてが賭けられていることを、誰もが知っていたからだ。

決戦の日。満ち潮に乗って、南漢の大船団が傲然と進んでくる。呉権は、小舟の部隊を囮に、敵をさらに奥深くへと誘い込んだ。

(誘い込め。もっと、もっと奥へ)

そして、時が来た。潮が、猛烈な勢いで引き始める。

「かかれッ!」

呉権の号令とともに、両岸に潜んでいた伏兵が一斉に襲いかかった。南漢軍が、慌てて船を返そうとした、その瞬間であった。

ご、ごごごっ。

凄まじい音とともに、船底が次々と突き上げられた。水面に姿を現した、鉄の牙。杭である。船は串刺しになり、砕け、乗り上げた。

「な、なんだ、あれはっ!」

南漢兵の絶叫が響く。大船団は、身動きのとれない巨大な残骸の山と化した。そこへ、呉権の兵たちが怒涛のごとく殺到した。もはや、戦ではなかった。一方的な殺戮であった。司令官・劉弘操は、その泥水のなかで絶命した。

呉権は、その光景を静かに見ていた。

終わった。千年の、長すぎた夜が。

翌939年、呉権は古螺(コロア)に都を定め、王を称した。この国は、初めて真の独立を手にしたのである。白藤江に昇った太陽が、ベトナムという国の新しい歴史を照らし始めていた。


終章:なお、この国は

白藤江の勝利から、さらに千年以上の時が流れた。しかし、あの千年の「北属期」がこの国に残した遺産は、あまりにも大きい。それは、現代ベトナム人の精神性の、いわばDNAに深く組み込まれている。

巨大な隣国・中国に対する、一言では言い表せぬ複雑な感情。それは単なる憎悪ではなく、あまりに長く、深く関わってきたがゆえの、愛憎の入り混じった、いわば「業」のようなものなのかもしれない。

そして何よりも、徴姉妹から呉権に至る無数の英雄たちの物語。それらは単なる過去の逸話ではない。困難に直面したとき、この国の人々が立ち返るべき精神の原風景であり、誇りの源泉なのである。思えば、この後のベトナムの歴史もまた、「闘争と復活」の連続であった。モンゴル帝国の三度にわたる侵攻を退け、明の支配を覆し、そして近代に至ってはフランス、アメリカと戦い抜いた。相手がどれほど強大であろうと、彼らは決して屈しなかった。その不屈の精神の原型は、すべてあの千年の「北属期」に培われたものといってよい。

ベトナムという国は、これからも、その粘り強い生命力で、幾多の困難を乗り越えてゆくのだろう。その姿を思うとき、私はいつも、白藤江の泥水の中から、夜明けの光に向かって突き出す、無数の杭の幻影を見るのである。