はじめに

ベトナムに進出する企業は、立ち上げの計画には膨大な時間とエネルギーを注ぐ。投資登録証明書(IRC)の取得、工場の建設、スタッフの採用 ― すべてが前向きなプロセスだ。

しかし、「出口」のことを考えている企業は驚くほど少ない。

「撤退なんてまだ先の話だ」「うまくいくつもりで来ているのに、なぜ撤退を考えるのか」。そう思うのは自然だ。だが、ベトナムにおける会社清算は、日本の感覚とはまったく異なる世界である。

日本では、中小企業の清算は解散決議から3〜6か月で完了することが多い。最終確定申告をして、法務局で清算結了の登記をすれば終わりだ。

ベトナムでは最低1年、通常2年。複雑な案件なら3年以上かかることも珍しくない。

最大のボトルネックは税務調査だ。清算通知を出した瞬間、税務当局が過去最大10年分の帳簿を全件精査する。そして追徴税がゼロで終わることは「ほぼない」。

この記事では、ベトナムからの撤退・会社清算の全プロセスを、実務の落とし穴まで含めて解説する。進出前に読んでおくことで、設立段階からの「出口を見据えた経営」が可能になる。


第1章 ベトナムの会社清算は「9ステップ・マラソン」

ベトナムの会社清算は、企業法2020年(Luật Doanh nghiệp 2020)第207〜213条に規定されている。外資100%子会社(LLC=有限責任会社)の場合、オーナーである親会社の決議で任意清算を開始できる。

全体の流れを見てみよう。

ステップ1:清算決議(0〜2週間)

親会社の取締役会で清算を正式に決議し、清算委員会を設置する。ここは日本と同じ感覚でスムーズに進む。

ステップ2:当局への届出と公告(2〜4週間)

清算決議から7営業日以内に、計画投資局(DPI)に通知する。企業ポータルに公告し、債権者に異議申立ての機会を与える。決議から30日以内に全国紙にも公告する。

この時点で企業の登記ステータスは「解散手続中(đang giải thể)」に変更される。以降、清算目的以外の新規契約は一切締結できない

ステップ3:税務精算(3〜12か月) ― 最大のボトルネック

ここがベトナム撤退の核心であり、最も時間がかかる工程だ。第2章で詳しく解説する。

ステップ4:社会保険の精算(1〜3か月)

社会保険局で保険料の精算を行い、全従業員の保険帳簿を清算する。

ステップ5:従業員への通知と補償(1〜3か月)

全従業員に解雇通知を出し、退職金・解雇手当を支払う。第3章で詳しく解説する。

ステップ6:資産の処分(3〜12か月)

設備、在庫、不動産(土地使用権)を売却または処分する。特に不動産の売却は買い手探しに時間がかかる。

ステップ7:債務の弁済

企業法第212条に定められた法定順序に従い、すべての債務を弁済する。

優先順位 弁済対象
第1順位 従業員への賃金・退職金・社会保険料
第2順位 租税債務(税金・関税・社会保険の未払い分)
第3順位 その他の債務(取引先への買掛金等)
最終 残余財産を親会社に分配

従業員が最優先、次が税金、その次が取引先。親会社が受け取れるのは最後だ。

ステップ8:解散申請と登記抹消(1〜2か月)

すべての債務が弁済された後、DPIに解散申請を行い、公安に法人印鑑を返却し、企業登記を抹消する。

ステップ9:残余財産の送金

全手続き完了後、残余財産を直接投資資本口座(DICA)を通じて親会社に送金する。利益送還税は0%だが、税務義務完了確認書、監査済み財務諸表、登記抹消証明など、銀行に提出する書類は少なくない。


第2章 税務調査 ― 全件に入り、追徴ゼロは「ほぼない」

清算通知 = 税務調査の開始合図

ベトナムでは、清算通知を税務当局に出した時点で、全件の税務調査が開始される。これは過去に税務調査を受けていたかどうかに関係ない。

税務当局にとって、清算は企業から税金を徴収する最後のチャンスだ。だから徹底的にやる。

調査対象は「最大10年」

税務管理法2019年に基づき、税務当局は過去最大10年分のすべての税目を精査できる。実務上は過去3〜5年が重点的に調査されるが、不正が疑われると10年に拡大される。

対象となる税目は、法人税(CIT)、付加価値税(VAT)、個人所得税(PIT)、外国請負業者税(FCT)、印紙税、土地使用料 ― つまりすべてだ。

よくある指摘パターン

税務調査で外資企業が特に指摘されやすいポイントがある。

法人税(CIT)の損金否認: 証拠書類が不十分な費用は容赦なく否認される。親会社からの管理費配賦の根拠が曖昧だと、全額が損金否認の対象になる。

VAT仕入控除の否認: ベトナムでは「2,000万VND超(約12万円)の取引は非現金払いでなければVAT仕入控除を認めない」という運用がされてきたと言われる。日本の感覚で小口現金を多用していると、清算時に大量のVAT控除が否認されるリスクがある。

移転価格の調整: 親会社との関連者間取引(ロイヤルティ、技術サービス料、管理費)の価格が「独立企業間価格」として妥当かどうかが厳しく精査される。移転価格文書(TP Documentation)を日頃から整備していないと、税務当局の言い値で調整されるリスクがある。

CITとVATの申告不整合: CIT申告上の売上高とVAT申告上の売上高に差異がある場合、高い方が課税ベースとして採用される。

罰則は「日割り」で雪だるま式に膨らむ

追徴税に加えて、税務管理法2019年に基づき**延滞税(日割り0.03%)罰金(追徴税額の20%)**が課される。延滞税は遡及的に計算されるため、3年前の指摘であれば約3年分の延滞税が乗る。金額が小さくても、期間が長ければ相当な額になる。

税務精算が長引く5つの理由

  1. 税務当局の人員不足: 調査官のスケジュールが詰まっており、調査開始まで数か月待たされることがある
  2. 書類の不備: ベトナム語の翻訳が不完全、電子インボイスの形式要件違反、原本の不在
  3. 移転価格の見解相違: 税務当局との価格妥当性に関する議論が長期化
  4. 追加書類の繰り返し要求: 一度提出した書類に対して、追加説明や追加資料が何度も求められる
  5. VAT還付審査: 清算時にVAT還付を申請すると、還付審査に追加で40営業日程度かかるとされる

第3章 従業員への補償 ― 法定義務とそれ以上

法定の退職金・解雇手当

会社清算による雇用契約終了は、労働法2019年第34条第7号に該当する。この場合、12か月以上勤務した従業員には解雇手当を支払う義務がある。

解雇手当の計算式:

解雇手当 = 算定用勤続年数 × 退職前6か月の平均賃金 × 1.0

勤続1年につき1か月分の賃金が基準となる。ただし、失業保険に加入していた期間は算定から除外される。2009年以降にベトナムの失業保険制度が適用されるようになったため、実質的な対象期間は限定的になるケースも多い。

端数処理は、6か月以上は1年に切り上げ、6か月未満は切り捨て。最低でも2か月分が保障される。

通知期間

労働法2019年が定める通知期間は次のとおりとされる。

  • 不定期契約の従業員:解雇の45日前までに書面通知
  • 定期契約の従業員:30日前
  • 12か月未満の契約:3営業日前

大量解雇の追加手続き

2名以上の解雇を行う場合は、労働利用計画を策定し、基層労働組合(Công đoàn)と15日以内に協議し、省レベルの労働局に30日前までに通知する義務がある。

「法定以上」が実務の常識

ここが日本人が見落としやすいポイントだ。法定の退職金・解雇手当だけでは、従業員は円満に去ってくれないことが多い。

ベトナムのビジネスコミュニティは比較的小さい。撤退の仕方が悪いと、SNSや口コミを通じて瞬く間に広がり、日系企業全体の評判に影響する。「あの日系企業は法定ギリギリしか払わずに逃げた」という評判は、同じ地域で事業を続ける他の日系企業にも波及する。

実務上は、法定の解雇手当に加えて1〜3か月分の追加補償金を上乗せし、円満退職を実現するのが慣行だ。この「上乗せ分」は予算に組み込んでおきたい。

支払期限

すべての支払いは、雇用契約終了日から14営業日以内(労働法第48条)。遅延すると追加の補償義務が発生する。


第4章 資産の処分 ― 工場・設備・在庫をどうするか

不動産(土地使用権)

ベトナムでは外資企業は土地を「所有」しているわけではない。工業団地の管理委員会から土地使用権をリースしているのだ。撤退時の選択肢は3つ。

  1. 工業団地管理委員会への返還: リース契約に基づき、残存期間のリース料の返還を受けられる場合がある
  2. 第三者への譲渡: 管理委員会の承認が必要。管理委員会が先買権(優先購入権)を持つケースもある
  3. 建物・設備込みでの売却: 最も一般的な方法

いずれの場合も、土地使用権の譲渡益に対しては**CIT 20%**が課税され、建物・設備の売却にはVAT **10%**が発生する。

不動産の売却交渉は長期化しやすい。特に地方の工業団地では買い手が限定的であり、6〜12か月かかることも珍しくない。撤退を決めたら、正式な清算決議の前から水面下で売却先の候補を探し始めるのが得策だ。

生産設備

中古設備の市場はベトナムでも限定的だ。グループ会社が他のASEAN拠点を持っている場合は、設備の移管も選択肢になる。売却時にはVAT 10%が課税される。減価償却未了の資産は帳簿価額との差額が損益に影響するため、税務処理を慎重に行う必要がある。

在庫

在庫の廃棄には税務当局の立会いが必要だ。立会いなしに廃棄すると、その分の費用が損金不算入になるリスクがある。また、廃棄した場合はVAT還付が認められないケースもある。可能な限り売却処分することが望ましい。


第5章 残余財産の送金 ― 最後の関門

すべての債務を弁済し、すべての行政手続きを完了した後、ようやく残余財産を親会社に送金できる。

必要書類

送金には**直接投資資本口座(DICA)**を通じた手続きが必要で、以下の書類を銀行に提出する。

  • 清算決議書
  • 税務義務完了確認書(税務当局発行)
  • 監査済み財務諸表
  • 企業登記抹消証明(DPI発行)
  • 資金の合法的出所を証明する書類

**利益送還税は0%**だが、銀行は国家銀行(SBV)のガイドラインに従い書類の完全性を厳格に確認するため、書類の不備があると送金が止まる。


第6章 撤退が長期化する「本当の理由」

公式の手続きフローだけ見れば、半年くらいで終わりそうに思える。しかし実際には最低1年、通常2年、複雑な案件なら3年以上かかる。なぜか。

税務調査の遅延: 税務当局の人員不足により、調査の開始自体が数か月遅れることがある。調査が始まっても、追加書類の要求と再提出の繰り返しで時間が過ぎていく。

不動産売却の難航: 地方の工業団地では買い手が限られる。価格交渉、管理委員会の承認取得、契約締結まで半年以上かかることが常態化している。

債権回収の困難: 取引先からの未収金が回収できず、財務精算が完了しない。

行政手続きの遅延: ベトナムの行政は書類の不備に厳格で、一つの不備で差し戻しになり、再提出に時間がかかる。

「撤退するのに人が必要」問題: 清算手続きを進めるには、経理担当者、法務担当者、管理者が必要だ。しかし撤退が決まった会社に残りたい従業員は少ない。優秀な人から辞めていく。残った少人数で膨大な手続きを回さなければならない。


日本との違い ―「日本の常識が通じない」ポイント

期間の感覚が根本的に違う

日本:解散決議から3〜6か月で清算結了。 ベトナム:清算通知から最低1年、通常2年。複雑な案件なら3年以上。

この差を日本本社が理解していないと、「なぜまだ終わらないのか」という不毛なやり取りが繰り返される。進出を検討する段階で、「撤退には最低1年、通常2年、複雑なら3年以上」と本社に共有しておきたい。

税務調査の強度が違う

日本:清算時に税務調査が入るとは限らない。入らないまま終わることも多い。 ベトナム:清算通知の時点で全件税務調査が入る。そして追徴税がゼロで終わることは「ほぼない」。

外資企業に対してはローカル企業以上に厳格な精査が行われる。「うちは真面目にやっているから大丈夫」と思っていても、ベトナムの税務基準での「真面目」と日本基準での「真面目」は異なる。

退職金の法的義務が違う

日本:退職金は法定義務ではない。就業規則次第。 ベトナム:退職金(厳密には解雇手当)は法定義務。さらに実務上は法定以上の支払いが慣行。


ここが変わった(2025〜2026年)

改正企業法2025年

UBO(実質的支配者)情報の長期保管義務が追加された。解散・破産時であっても、企業登録機関はUBO情報を最低5年間保管しなければならない。清算すれば痕跡が消えるわけではない。

虚偽資本申告の禁止強化も注目すべき変更だ。定款資本と実際の払込資本の不一致に対する罰則が強化された。清算時にこの不一致が発覚すると、追加の法的リスクが生じる。

CIT法2025年

清算時のCIT精算にも新法が適用される。過去に工業団地優遇(2免4減)の適用を受けていた企業が清算する場合、経過措置の解釈をめぐって税務当局と争いになる可能性がある。

改正投資法2025年

投資プロジェクトの終了手続きが更新された。具体的な施行規則はDecreeで規定される予定であり、最新の手続きを確認する必要がある。


まとめ:やっておくべきこと

  1. 進出前に「出口戦略」を理解しておく。 撤退には最低1年、通常2年、複雑なら3年以上。その間ずっと弁護士・税理士の費用がかかり続けるとされる。この事実を本社と共有しておく

  2. 設立初日から帳簿を完璧にする。 撤退時の税務調査に耐えられる品質の書類管理を、初年度から徹底する

  3. 証拠書類はベトナム語で10年保管する。 税務調査の対象は最大10年。日本語の書類だけでは不十分

  4. VAT 2,000万VND超は銀行振込を原則にする。 現金払いはVAT仕入控除が否認されるリスクがある。設立段階から経理ルールに組み込む

  5. 移転価格文書を毎年作成・更新する。 撤退時にまとめて作るのは実質不可能。親会社との取引がある限り、毎年の作成が必須

  6. 退職金・解雇手当の予算を確保しておく。 法定分に加えて1〜3か月分の上乗せを想定。「円満撤退」は日系企業全体の評判に関わる

  7. 不動産の売却は清算決議前に動き始める。 正式決議後は活動制限がかかる。水面下での買い手探しは早ければ早いほどよい

  8. 撤退時に残る人材の確保を計画する。 経理・法務の担当者が先に辞めると、手続きが立ち行かなくなる。残留インセンティブを設計する

  9. 専門家(弁護士・税理士)は撤退決議前に選定する。 清算に強い専門家とそうでない専門家がいる。実績を確認して選ぶ

  10. 「半年で撤退できる」と約束しない。 最低1年、通常2年、複雑なら3年以上。本社への期待値管理が最も重要なアクション


参照時点と主要根拠法令

本記事は2026年3月時点の調査に基づいています。法令は改正されるため、実務の判断は現行の一次資料で確認してください。

主要根拠法令: 企業法2020年(第207〜213条、弁済順序は第212条)/改正企業法2025年/税務管理法2019年/労働法2019年(解雇手当は第34条第7号、支払期限は第48条)/CIT法2025年/改正投資法2025年