はじめに
ベトナムで人を雇った瞬間、給与の約 32% が社会保険関連のコストとして上乗せされる。使用者負担だけで 21.5%。さらに労働組合費2%を加えると、給与の 23.5% が人件費に自動的に追加される。
日本でも社会保険料は大きな負担だが、労使折半(約15%ずつ)の仕組みに慣れていると、ベトナムの使用者負担の大きさに驚くだろう。しかもそれだけではない。日本人駐在員も、企業内転勤者などの免除に当たらなければ、ベトナムの社会保険に加入することになる。日本とベトナムの間には社会保障協定が発効していないため、その場合は日本の厚生年金との二重加入になる。
ここで一つ、取り違えられやすい点を先に置いておきたい。外国人の加入義務は2025年に始まったものではない。2018年12月1日からすでに続いている。2025年7月に施行された社会保険法で変わったのは保険料率ではなく、「誰が加入するのか」の線引きのほうだった。
この記事では、ベトナムの社会保険制度の全体像、保険料率の詳細、外国人労働者への影響、そして2025年7月施行の新法で何が変わり、何が変わらなかったのかを解説する。
第1章 3つの保険の全体像
社会保険・医療保険・雇用保険
ベトナムの強制保険制度は3つの柱で構成される。
社会保険(BHXH) は最も大きな保険で、退職・遺族給付、傷病・出産手当、労災・職業病補償の3つの基金に分かれる。
医療保険(BHYT) は、医療機関での診療・治療費用をカバーする保険で、日本の健康保険に相当する。
雇用保険(BHTN) は、失業時の手当と職業訓練支援を提供する保険。ただし 外国人労働者は適用対象外 だ。
第2章 保険料率の全貌
ベトナム人労働者の保険料率
| 保険種類 | 使用者 | 労働者 | 合計 |
|---|---|---|---|
| 社会保険(退職・遺族) | 14% | 8% | 22% |
| 社会保険(傷病・出産) | 3% | 0% | 3% |
| 社会保険(労災・職業病) | 0.5% | 0% | 0.5% |
| 医療保険 | 3% | 1.5% | 4.5% |
| 雇用保険 | 1% | 1% | 2% |
| 合計 | 21.5% | 10.5% | 32% |
料率の根拠は一つの法律にまとまっていない。傷病・出産の3%と退職・遺族の22%(使用者14%+労働者8%)は社会保険法(法律第41/2024/QH15号)第32条1項と第33条1項a、労災・職業病の0.5%は労働安全衛生法(法律第84/2015/QH13号)と Decree 158/2025/ND-CP、雇用保険の1%+1%は雇用法(法律第74/2025/QH15号)にある。なお労災・職業病の料率には、要件を満たす企業について 0.3% へ軽減する仕組みがDecree 158/2025/ND-CPに置かれている。自社が該当するかは確認しておきたい。
外国人労働者の保険料率(現行)
| 保険種類 | 使用者 | 労働者 | 合計 |
|---|---|---|---|
| 社会保険(退職・遺族) | 14% | 8% | 22% |
| 社会保険(傷病・出産) | 3% | 0% | 3% |
| 社会保険(労災・職業病) | 0.5% | 0% | 0.5% |
| 医療保険 | 3% | 1.5% | 4.5% |
| 雇用保険 | 適用なし | 適用なし | 0% |
| 合計 | 20.5% | 9.5% | 30% |
外国人労働者は雇用保険が免除されるため、合計は30%。それでも給与の約3割が保険料として消えることに変わりはない。
保険料の上限
保険料の計算基礎になる給与には上限がある。社会保険法第31条1項đが、上限を「基準額(mức tham chiếu)の20倍」と定める。基準額は同法第7条にいう政府決定の金額で、第141条13項の経過措置により、基礎給与(mức lương cơ sở)が廃止されるまでは基準額=基礎給与として扱われる。
ここで用語に気をつけたい。日本語の資料では、この基礎給与が「共通最低賃金」と訳されていることがある。しかしこれは公務員給与や社会保険給付の計算に使う指標で、民間企業に適用される 地域別最低賃金 とはまったく別物だ。取り違えると計算の桁が変わる。
基礎給与は 2026年7月1日 から Decree 161/2026/ND-CP により VND 2,530,000 に引き上げられた。したがって現在の上限は VND 50,600,000/月。2026年6月30日まではVND 2,340,000(Decree 73/2024/ND-CP)で、上限はVND 46,800,000だった。引き上げの前後で数字が変わるので、上限を使って計算するときは、参照した資料がどちらの時点のものかを見たい。
医療保険も同じく基準額の20倍(健康保険法改正・法律第51/2024/QH15号 第18条5項)。雇用保険だけは基礎が異なり、上限は地域別最低賃金の20倍とされている(雇用法・法律第74/2025/QH15号 第58条2項)。外国人労働者は雇用保険の対象外なので駐在員の計算には出てこないが、ベトナム人従業員では上限の基礎が二本立てだと押さえておきたい。
駐在員の月給がこの上限を超えることは珍しくない。超える場合、保険料はVND 50,600,000に対して計算される。外国人の使用者負担率20.5%で計算すると、1人あたり月額約VND 10,373,000で頭打ちになる。
第3章 外国人労働者の加入義務 — 2018年に始まり2022年に完成した
いつから始まったのか
外国人労働者の強制加入が始まったのは 2018年12月1日。根拠は Decree 143/2018/ND-CP だった。ただしこのときの対象は労災・職業病基金(使用者0.5%)と傷病・出産基金(使用者3%)の2つで、使用者負担は合わせて3.5%にとどまっていた。
退職・遺族基金(使用者14%・労働者8%)が上乗せされたのは 2022年1月1日 から。ここで現在の水準がそろった。外国人の保険料が跳ね上がったのは2022年の出来事であって、2025年ではない。
2025年7月に変わったのは料率ではなく要件
2025年7月1日に施行された社会保険法(法律第41/2024/QH15号)は、外国人の保険料率を動かしていない。変わったのは次の三つだ。
一つ目は、根拠の格上げ。政令で定めていた外国人の加入義務が、法律本体に書き込まれた。旧根拠の Decree 143/2018/ND-CP は、施行細則である Decree 158/2025/ND-CP により廃止されている。
二つ目は、加入要件の一本化。同法第2条2項は、ベトナムの使用者と12ヶ月以上の期間を定めた労働契約を結んでいるかどうかだけで判定する形にした。
三つ目は、除外事由が法律に明記されたこと。企業内転勤者、契約締結時に定年年齢に達している者、条約に別段の定めがある場合の三つが、条文に並んだ。
加入義務の要件
第2条2項により、加入義務の判定はこの一点に集約される。
- ベトナムの使用者と、12ヶ月以上の期間を定めた労働契約 を締結していること
旧 Decree 143/2018/ND-CP にあった「労働許可証(Work Permit)、実務証明書または実務許可証を保有していること」という要件は、2025年7月1日以降の判定には使われない。3要件で説明している資料は旧制度に基づくものなので、確認するときは、その資料がいつ時点の制度を書いているかを見たい。
加入が免除されるケース
第2条2項が挙げる除外は三つ。
企業内転勤者(ICT):外国の親会社からベトナム子会社に社内異動として派遣されている場合。ただし、ICTの定義は厳格であり、単に「親会社から派遣された」だけでは免除されない可能性がある。雇用契約の形態(ベトナム子会社との直接契約か、親会社との契約のままか)が判断基準になる。
契約締結時に定年年齢に達している者:定年年齢は労働法(法律第45/2019/QH14号)第169条2項に基づき年ごとに引き上げられている。該当するかどうかは、赴任時点の年齢表で確認したい。
条約に別段の定めがある場合:ベトナムが締約国となっている国際条約が別の扱いを定めているとき。日本との間に、これに当たる社会保障協定はまだない。
二重加入の問題
日本とベトナムの間には 社会保障協定 が発効していない。上の免除に当たらない駐在員は、ベトナムの社会保険に加入したうえで、日本の厚生年金の保険料も払い続けることになる。免除の仕組みがないので、これは純粋な追加コストだ。
ベトナムが社会保険分野で二国間協定を結んでいる相手は、現時点では 韓国だけ(2024年1月1日発効)。ベトナムにとって初めての二国間協定だった。韓国人駐在員はすでに二重負担を避けられる立場にあるが、日本人駐在員はまだそこに届いていない。日越間についても2025年に政府間交渉が始まったと伝えられているものの、2026年8月時点で発効には至っていない。
帰国時の一時金受給
ベトナムの社会保険に加入した外国人労働者は、帰国する際に 社会保険一時金 を受給できる。加入期間と平均給与に基づいて計算され、掛け捨てにはならない。ただし、受給手続きには一定の時間がかかるため、帰任スケジュールに組み込んでおく必要がある。
第4章 保険の給付内容
傷病手当 — 給与の75%
病気や怪我で就業できない場合、社会保険料の算定基礎給与の 75% が傷病手当として支給される(社会保険法第45条2項)。
支給日数は同法第43条1項で加入期間ごとに決まる。通常の就業条件なら、加入15年未満で年30日、15年以上30年未満で年40日、30年以上で年60日。重筋・有害・危険業務や特別に困難な地域での勤務なら、それぞれ40日・50日・70日まで延びる。祝日と週休は日数に数えない。
保健省が定める長期治療疾病リストに該当する疾病は、この日数を使い切ったあとも受給を続けられるが、給付率は加入期間に応じて50〜65%へ下がる(第45条3項)。
なお「傷病手当は年間最大180日」という説明を見かけることがある。これは旧社会保険法(法律第58/2014/QH13号)第26条2項aの規定で、長期治療疾病に該当する場合の枠だった。2025年7月施行の新法では、この180日の枠そのものが無くなっている。
率だけを見れば日本の傷病手当金(標準報酬日額の3分の2)より高いが、受け取れる日数は日本よりずっと短い。長期療養を想定した設計にはなっていない。
出産手当 — 6ヶ月間100%
女性労働者は出産時に 6ヶ月間、給与の100% が出産手当として支給される。これは日本の出産手当金(標準報酬日額の2/3×産前42日+産後56日)と比べて、期間も金額も大幅に手厚い。
男性労働者は配偶者の出産時に 5〜14営業日 の有給休暇が認められる。
医療保険 — 自己負担20%
医療保険の標準的な自己負担率は 20%。つまり、初期登録した医療機関での診療は80%がカバーされる。ただし、紹介状なしで上位の医療機関(中央病院等)を直接受診した場合は自己負担率が高くなる。
第5章 実務上の注意点
保険料の納付
保険料は毎月、翌月の最終日までに納付する。遅延した場合は日次0.03%の延滞金が課されるとされる。
申告は電子取引が原則で、根拠は社会保険法第25条。企業側の入口は二つある。一つは ベトナム社会保険公共サービスポータル(Cổng Dịch vụ công BHXH Việt Nam、dichvucong.baohiemxahoi.gov.vn)に電子取引アカウントを登録する方法。もう一つは、認定を受けた I-VAN事業者(eBH、VNPT-BHXH、MISA、TS24など)の電子申告ソフトを使う方法で、実務ではこちらを使う企業が多い。
紛らわしいのが VssID で、これは被保険者本人が加入履歴や給付を確認するための個人向けスマホアプリだ。企業の申告には使わない。着任した駐在員に「アプリを入れておいて」と案内するのはVssIDのほう、と整理しておくと社内で混乱しない。
保険料の計算基礎に含まれるもの
保険料の計算基礎は「基本給+各種手当」であり、給与に含まれる固定的な手当(役職手当、技術手当等)は計算基礎に含まれる。一時的な賞与やインセンティブは含まれない場合がある。手当の設計によって保険料の計算基礎が変わるため、給与体系の設計時に考慮が必要。
人件費への総合的な影響
ベトナム人従業員を1人雇用した場合の使用者側の追加コストをまとめると以下の通りだ。
| 項目 | 料率 |
|---|---|
| 社会保険(使用者) | 17.5% |
| 医療保険(使用者) | 3% |
| 雇用保険(使用者) | 1% |
| 労働組合費 | 2% |
| 合計 | 23.5% |
労働組合費2%の根拠は労働組合法(法律第50/2024/QH15号)第29条で、算定基礎は従業員の給与総額ではなく、強制社会保険の算定基礎となる給与総額 である。
月給VND 10,000,000の従業員の場合、使用者の追加負担は月額VND 2,350,000。従業員100人の工場なら、月額VND 235,000,000、年間でVND 28.2億の追加コストになる。円に直せば月額およそ140万円、年間およそ1,700万円だが、これは本記事の参照時点での為替による概算にすぎない。為替は動くので、予算を組むときはドン建てで押さえてから換算したい。
日本との違い — 「日本の常識が通じない」ポイント
社会保障協定がない
日本は2026年4月時点で 24か国 と社会保障協定を発効させている(厚生労働省の公表による)。ベトナムはその中に入っていない。
ベトナムの側から見ると、社会保険分野の二国間協定は韓国との1本だけだ。同じ工業団地に入っていても、韓国系企業の駐在員は二重負担を避けられる立場にあり、日本人駐在員は日本とベトナムの両方に払っている。この差は外交日程から生まれたもので、企業レベルで動かせるものではない。人件費の見積もりでは、当面この二重負担が続く前提で置いておきたい。
使用者負担が大きい
日本の社会保険は基本的に労使折半だが、ベトナムでは使用者負担が21.5%(労働者は10.5%)と、使用者側に偏っている。人件費の計画において、日本の感覚(給与×1.15程度が総コスト)で計算すると大幅に不足する。
出産手当が非常に手厚い
ベトナムの出産手当は6ヶ月間100%給与支給で、日本や多くの先進国より手厚い。女性従業員の多い工場では、出産休暇の人員カバー計画が重要になる。
ここが変わった(2025〜2026年)
2024年社会保険法(法律第41/2024/QH15号、2025年7月1日施行)
外国人の加入義務が政令から法律本体へ移り、判定基準が「12ヶ月以上の期間を定めた労働契約かどうか」に一本化された。労働許可証等の保有は要件から外れている。保険料率は変わっていない。
傷病手当の支給日数も同法第43条で組み直され、旧法にあった「長期治療疾病は年間最大180日」という枠は無くなった。
Decree 158/2025/ND-CP
2024年社会保険法の施行細則。加入手続き、保険料計算、給付申請の運用を定める。あわせて、外国人の加入義務の旧根拠だった Decree 143/2018/ND-CP をこの政令で廃止した。労災・職業病保険料の0.5%と、要件を満たす場合の0.3%への軽減もここにある。
基礎給与の引上げ(Decree 161/2026/ND-CP)
2026年7月1日から基礎給与がVND 2,530,000になり、社会保険・医療保険の算定基礎の上限がVND 50,600,000/月へ上がった。上限に張り付いている駐在員の保険料は、この改定でそのまま増える。
雇用法(法律第74/2025/QH15号)
2025年7月1日に旧雇用法(法律第38/2013/QH13号)を置き換えた。雇用保険の算定基礎の上限は地域別最低賃金の20倍で、社会保険・医療保険とは基礎が異なる。
まとめ:やっておくべきこと
人件費計算に社会保険コスト23.5%を正確に反映する — 給与の約4分の1が使用者側の保険料・組合費になることを前提に予算を組む
日本人駐在員の加入要件を新法の基準で確認する — 判定は「12ヶ月以上の期間を定めた労働契約かどうか」の一点。労働許可証の保有を要件に含めた古い3要件で判断しない
駐在員のICT(企業内転勤者)該当性を法的に確認する — 免除される可能性がある場合は、法的根拠を明確にする
日本の厚生年金との二重加入について日本本社に報告する — 追加コストの認識と承認を得る
帰任時の社会保険一時金受給手続きを整理する — 帰任計画に組み込む
給与体系の設計時に保険料計算基礎を考慮する — 固定手当と変動手当の区分を意識する
電子申告の入口を決めて運用体制を構築する — 社会保険公共サービスポータルに登録するか、I-VAN事業者の申告ソフトを使うかを先に決める
出産休暇の人員カバー計画を策定する — 6ヶ月間の長期休暇に備えた体制を整える
保険料の上限額の変動をモニタリングする — 基礎給与(社会保険法上の基準額)の改定に連動して変わる。直近は2026年7月1日にVND 50,600,000へ上がった
日越社会保障協定の進み方を追う — 政府間の交渉が始まったと伝えられている段階だが、発効すれば二重加入の解消につながる。人件費計画に効く話なので本社と共有しておきたい
参照時点と主要根拠法令
本記事は2026年3月時点の調査に基づいています。法令は改正されるため、実務の判断は現行の一次資料で確認してください。なお、外国人労働者の社会保険適用の変遷、保険料の算定基礎の上限、傷病手当の支給日数、電子申告の窓口、社会保障協定の締結状況については2026年8月に一次資料で再確認しています。
主要根拠法令: 社会保険法(法律第41/2024/QH15号、2025年7月1日施行。第2条2項・第7条・第25条・第31条・第32条・第33条・第43条・第45条・第141条)/旧社会保険法(法律第58/2014/QH13号、第26条)/健康保険法改正(法律第51/2024/QH15号、第18条)/雇用法(法律第74/2025/QH15号、第58条。旧雇用法・法律第38/2013/QH13号を置換)/労働法(法律第45/2019/QH14号、第169条)/労働組合法(法律第50/2024/QH15号、第29条)/労働安全衛生法(法律第84/2015/QH13号)/Decree 158/2025/ND-CP(強制社会保険の施行細則)/Decree 143/2018/ND-CP(外国人加入の旧根拠。2025年7月1日に廃止)/Decree 161/2026/ND-CP(基礎給与VND 2,530,000、2026年7月1日適用)/Decree 73/2024/ND-CP(基礎給与VND 2,340,000、2026年6月30日まで)



