1. テトの日本旅行、それは「自律」という名の修羅場だった
今年のテト休暇、私たちは家族で初めての日本旅行へと向かいました。諸事情により、到着2日目にして妻がベトナムへ急遽帰国せざるを得なくなり、私一人で6歳の娘と4歳の息子を抱え、日本の冬を旅することになったのです。
その時滞在していた日本の実家の母にその状況を伝えると、「無理だ!」と断言しました。 「普通の子だったら大丈夫だろうが…」と言ったように我が家の子供たちは、日本の「標準」からすると、少し——いや、かなり「普通ではない」空気感を纏っているからです。まあ、外国暮らしなので仕方がないが。
まず、地声が異常に大きい。 活気と騒音にある程度の寛容さがあるベトナムでさえ「極めて大きい」と感じるレベルですから、静寂を美徳とする冬の日本において、彼らの声は爆音に近い衝撃を持って響きます。
そして何より、彼らには「何でも自分で決めて、自分でやり抜く」という、モンテッソーリ教育によって徹底的に磨き上げられた強烈な意志がありました。この意志が、初めて訪れる日本の風景の中で、私に「親としての覚悟」を冷酷に突きつけてきたのです。
2. なぜベトナムで「あえて」モンテッソーリを選んだのか
SNS映えする教育への違和感
娘が最初に通っていたベトナムの私立幼稚園は、いかにも現代的でした。巨大なボールプール、SNS映えする華やかな発表会、親ウケを狙った「ヨガ教室」。しかし、それらはどこか「与えられた娯楽」を消費しているだけにしか見えませんでした。
「自分の意思を持たない」大人たちへの問い
一方で、仕事の現場では別の課題が見えていました。非常に優秀でありながら、自分の意思や考えを表明することに消極的な同僚たちの姿です。指示を待つことには長けていても、ゼロから自分の足で歩き出す強さが足りないのではないか。 「自分の人生を、自分の意思で動かす人間を育てたい」 その一心で、近所のモンテッソーリ幼稚園がベトナム語コースを開設したのを機に、私はこの「茨の道」へと足を踏み入れました。
その時は大した期待はしていませんでした。ベトナムだとモンテッソーリと謳っている幼稚園があまりにも多く、どうせ本物のモンテッソーリじゃないだろうという気持ちでした。
3. 「自分でやる!」という衝動が招く、親の疲弊と「問題児」の側面
モンテッソーリ教育を受けた子供は、掃除や食事の準備を「おしごと」として捉えます。その主体性は、家庭内ではしばしば「効率の敵」として現れます。
セルフレジ占領事件
日本旅行中、初めて見るセルフレジは、彼らにとって魅力的な「教具」に見えたのでしょう。仕組みを一瞥しただけで理解した6歳の娘が「私がやる!」と一つの機械を占領。すると間髪入れず、4歳の息子も別の機械を確保し、黙々とスキャンを始めました。 幸い他のお客さんがおらず、店員さんも手伝ってくれましたが、父としては間違えてお金を少なく払って出ることになるのではと背筋が凍る思いでした。効率とスピードを重視する社会において、彼らの「納得するまでやり遂げる」姿勢は、親に「待つ」という多大なコストを要求します。
家の中は常に「戦場」
家でも、頼んでもいないのに水を使ったモップ掛けを始め、床を水浸しにする。卵料理をすると言い出し、床にぶちまける。「やめてくれ~、助けて~」という言葉を飲み込む毎日。 学術的な視点から見れば、これは「意識的な吸収精神」がピークに達した健全な発達です。しかし、現実を生きる親の心理的な余白は、この自律の萌芽によって日々削り取られていきます。
ある視点から見れば、彼らはただの「言うことを聞かない、手のかかる問題児」です。親がコントロールしようとしても、彼らの中にある「内発的な衝動」がそれを許さないのです。
4. ベトナム私立小学校という「超・詰め込み教育」の壁
現在、6歳の娘はベトナムの私立小学校に通っています。ここは、日本の一斉教育以上に「詰め込み」が徹底された、競争の激しい環境です。
モンテッソーリ・ショックの再定義
「自分の興味に基づいて活動を選ぶ」モンテッソーリの世界から、「一斉に同じことを」詰め込み教育の世界へ。このギャップは、娘にとって巨大な壁となっています。
なぜ今、これをやらなければならないのか?
なぜ自分のペースで深掘りすることが許されないのか?
彼女の持つ「こだわり」や「自律性」は、この環境下ではしばしば「集団行動の阻害」と見なされます。理論上は、モンテッソーリで培われた「実行機能」や「集中力」が将来的に高い学業成就をもたらすとされていますが、今の彼女を見ていると、その芽が周囲からの「同調圧力」によって押し潰されてしまうのではないかという不安が拭えません。
5. 理論と現実の乖離:このコストは報われるのか
モンテッソーリ教育の長期的メリットとしては、成人後の幸福度、自己肯定感、エラー検出能力の高さと言われています。これらは確かに魅力的です。
しかし、日々の疲弊の中にいる親にとって、「今、目の前で地声を張り上げ、セルフレジを占領し、家を水浸しにしているこの子たちが、本当に『自立した大人』になれるのか?」 正直に言えば、私には確信が持てません。
6. 結論:祈りとしての「見守り」
私が今日、溜息をつきながら拭き取ったモップの水跡や、セルフレジの後ろで冷や汗をかきながら待った15分。これらはすべて、結実するかどうかわからない投資です。
今の彼らは、周囲の大人を困らせる「問題児」の側面を色濃く持っています。地声は大きく、意志は強固で、妥協を知らない。しかし、あの日本旅行で見せた、未知の機械に物怖じせず働きかけようとした小さな背中には、確かに「自分の世界を自分の力で動かそうとする力」が宿っていました。
ベトナムの激しい詰め込み教育という「アウェイ」の環境で、彼らがその火を消さずにいられるか。それは分かりません。
ただ、親である私にできるのは、彼らが「自分は自分の力で何かを成し遂げられるのだ」という根源的な自信(自己教育力)を失わないよう、家の中にだけは彼らの失敗と試行錯誤を許容する「余白」を死守することだけです。
「いつかこの強情さが、困難を切り拓く自律心に変わってほしい」
今はただ、その不確かな未来に向けて、祈るような気持ちで見守り続ける。それが、モンテッソーリ教育という「覚悟」を選んだ親の、唯一にして最大の「おしごと」なのだと自分に言い聞かせています。
ただ、日本での旅行は本当に疲れた…。行く先々で周りに迷惑をかけないか心配し、怒鳴ってしまい私の方がうるさくなったりしたり。ベトナムの入国審査官の前で殴る蹴るの喧嘩をしはじめたときは入国拒否されるのではと冷や汗をかいた。



