はじめに

日本で就業規則といえば、労基署に届け出ればそれで終わり。届出は義務だが、届出していなくても就業規則自体は従業員との間で効力を持つ、という判例もある。

ベトナムはまったく違う。就業規則は労働局(DOLISA)に**「登録」** しなければ法的効力を持たない。登録されていない就業規則で従業員を懲戒しても、その処分は無効と判断されやすい

さらに、ベトナムには日本にはない独特の仕組みがある。労働組合法に基づき、企業に労働組合がなくても給与総額の2%を労働組合費として納付する義務があるとされる。組合が存在しない企業でも、この費用は上級組合に納付することになる。

この記事では、ベトナムの就業規則の法定要件、懲戒制度の独自ルール、そして労働組合との付き合い方を解説する。

第1章 就業規則の作成義務

10名以上で作成義務が発生

Labor Code 2019第118条に基づき、従業員 10名以上 の企業は書面による就業規則(Nội quy lao động)を作成しなければならない。10名未満の企業には書面での作成義務はないが、懲戒処分を行うためには何らかの規定整備が推奨される。

言語のルール

就業規則はベトナム語が法的正本。外資企業は英語や日本語を併記できるが、ベトナム語版と他言語版で内容に齟齬がある場合は、ベトナム語版が優先される。

日系企業にありがちなのが、「日本語で就業規則を作って、ベトナム語は翻訳だけ」というパターン。ベトナムの法律用語と日本の法律用語は一対一で対応しない。翻訳ではなく、ベトナム法に基づいて一から作成し、日本語訳を添付するという順序が正しい。

第2章 必須記載事項 — セクハラ防止が義務化された

Labor Code 2019で追加された新要件

就業規則に含めるべき事項はLabor Code 2019第118条に列挙されている。

労働時間・休憩時間:始業・終業時刻、休憩、週休日、年次有給休暇のルール。

職場の秩序:通勤ルール、職場内での行動規範、服装規定等。

労働安全衛生(OSH):安全に関する基本ルール。製造業では特に詳細な規定が求められる。

資産保護・機密保持:企業資産の管理ルール、営業秘密・技術秘密の保護。

懲戒処分:処分の種類、適用基準、手続き(後述)。

物的損害賠償:従業員が企業に損害を与えた場合の賠償ルール。

セクシャルハラスメント防止:Labor Code 2019で新たに義務化された項目。Decree 145/2020/ND-CP の第84〜85条で具体的な内容が規定されている。

一時的配置転換:緊急時の職務変更の条件。

セクハラ防止規定の具体的要件

Decree 145は、就業規則にセクハラ防止規定として以下を含めることを義務付けた。

まず、セクハラの定義を具体的に記載する。身体的行為だけでなく、言語的行為(性的なコメント・要求)、非言語的行為(ボディランゲージ、SNSやメッセージアプリでの性的コンテンツの送信)も含む。

次に、禁止行為の明記。職場でのセクハラ行為を具体的に列挙し、禁止する旨を明確にする。

そして、対応手続き。内部で苦情を受け付ける担当者・窓口、調査の手順、処理の期限を定める。

最後に、懲戒処分。セクハラはLabor Code 2019第125条に基づく即時解雇事由となりうる。

「うちは少人数だし、そんな規定は大げさ」——そう思うかもしれない。しかし従業員10名以上であれば法的義務であり、規定がなければDOLISAが就業規則の登録を受け付けない可能性がある。

第3章 登録手続き — 「届出」ではない

登録なしの就業規則は「紙くず」

ここが日本との最大の違いだ。日本では就業規則を労基署に届出しなくても、合理的な労働条件を定めた就業規則は労働者を拘束する(判例法理)。

しかしベトナムでは、DOLISAに登録されていない就業規則に基づいて懲戒処分を行うことはできない。正確には、処分をすること自体は物理的に可能だが、従業員が争えば無効とされる。

登録の手順

  1. 就業規則案を作成する
  2. 従業員代表組織の意見聴取を行う。労働組合がある場合はその組合、ない場合は従業員代表を選出して意見を聞く。意見聴取の記録を作成する
  3. DOLISAに登録申請を提出する。添付書類として賃金テーブル意見聴取記録が必要
  4. 当局は受領後 15営業日以内 に登録の可否を通知するとされる
  5. 登録が完了したら、全従業員に周知する(掲示板への掲示、配布、電子メール等)

よくあるミス

「設立して何年も経つのに就業規則をDOLISAに登録していなかった」——これは外資企業で驚くほどよくある。登録していなかった期間中に行った懲戒処分は、すべて法的に脆弱な状態にある。過去に遡って無効を主張される可能性もゼロではない。

第4章 懲戒処分 — 「減給」は存在しない

4種類しかない懲戒処分

Labor Code 2019第124条が認める懲戒処分は4種類のみ

戒告(Khiển trách):書面による注意。最も軽い処分。

昇給延期(Kéo dài thời hạn nâng lương):最長6ヶ月間、昇給を延期する処分。

降格(Cách chức):職位の引き下げ。

解雇(Sa thải):最も重い処分。労働契約の終了。

注目すべきは、この中に**「減給」が含まれていない**こと。日本では、就業規則に基づく減給処分(労働基準法第91条により、1回の額が平均賃金の1日分の半額以内、総額が一賃金支払期の10分の1以内に制限される)が一般的な懲戒手段だが、ベトナムでは第124条が4種類を限定列挙しているため、減給は懲戒処分として認められていない

即時解雇が認められるケース

Labor Code 2019第125条に基づき、解雇(Sa thải)は以下の限定的なケースでのみ認められる。

  • 横領・窃盗・賭博・故意の傷害・薬物使用(職場内)
  • 営業秘密・技術秘密の漏洩
  • セクシャルハラスメント(就業規則に規定がある場合)
  • 無断欠勤:月に累計 5日、または年に累計 20日
  • 就業規則で即時解雇事由として明記された行為

懲戒手続きの厳格なルール

懲戒処分を行う際には、以下のルールを厳守しなければならない。

時効:Labor Code 2019では、違反の発覚から 6ヶ月以内 に懲戒処分を行うこととされている。複雑な案件(横領、秘密漏洩等)は 12ヶ月以内 とされる。条文上の起算点は案件によって解釈が分かれるため、実際の処分前に現行条文で確認したい。

聴聞手続き:懲戒処分の前に、従業員に弁明の機会を与える聴聞会を開催しなければならない。従業員は弁護士や従業員代表の同席を求めることができる。

二重処分の禁止:1つの違反に対して 2種類以上の処分を同時に科すことはできない

保護対象者への制限:妊娠中の女性、産休中・育休中の従業員、病気療養中の従業員には懲戒処分を科すことができない(時効は停止する)。

第5章 労働組合 — 日本とはまるで違う仕組み

ベトナム労働総同盟(VGCL)の一元的体制

日本では企業別組合、産業別組合、ナショナルセンター(連合等)が併存するが、ベトナムではベトナム労働総同盟(VGCL) が唯一の合法的な全国組織として位置づけられてきた。企業レベルの組合は「基層労働組合(Công đoàn cơ sở)」としてVGCLの傘下に入る。

「組合がなくても組合費を払う」制度

これが日本人にとって最も理解しにくい仕組みだろう。

ベトナムでは、企業に労働組合が存在するかどうかにかかわらず、すべての企業が給与総額(社会保険料計算基礎)の2% を労働組合費として納付する義務を負うとされる。労働組合法に基づく制度で、料率と算定基礎は現行の一次資料で確認したい。

組合がある企業では、この2%は企業の基層組合に配分される。組合がない企業では、上級労働組合(県・市レベル) に直接納付する。

つまり、「うちは組合を作らなければ組合費を払わなくて済む」という考えは通用しない

組合員の負担

組合員個人は、社会保険料計算基礎給与の 1% を組合費として納めるとされる。上限は国家基本給の 10% と言われる。

2025年改正:外国人の組合加入

2025年7月1日施行の改正労働組合法により、12ヶ月以上の雇用契約を持つ外国人労働者が初めて組合に加入できるようになった。ただし、外国人は組合の役職(委員長、副委員長等)に就くことはできない

将来の変化:VGCL以外の従業員代表組織

Labor Code 2019は「従業員代表組織(Tổ chức đại diện người lao động)」という概念を導入し、将来的にVGCLの傘下に入らない独立した組織も認められる余地を残している。これはCPTPP(環太平洋パートナーシップ)やEVFTA(EU・ベトナム自由貿易協定)の国際約束に基づくものだ。

ただし2026年3月時点では、具体的な施行細則はまだ公布されておらず、実質的にはVGCL一択の状態が続いている。

日本との違い — 「日本の常識が通じない」ポイント

就業規則の「届出」vs「登録」:日本では届出は形式的なもので、届出していなくても就業規則の効力は認められうる。ベトナムでは登録が効力発生の要件であり、未登録の就業規則に基づく懲戒処分は無効。

減給処分が使えない:日本では減給は一般的な懲戒手段だが、ベトナムの労働法では認められていない。懲戒の選択肢は戒告・昇給延期・降格・解雇の4つのみ。

労働組合費の強制負担:日本では組合がなければ組合費は発生しない。ベトナムでは組合の有無にかかわらず給与総額の2%を納付する義務があるとされる。

懲戒の時効が短い:日本では就業規則上の懲戒に法定の時効はないが(合理的期間の制限はある)、ベトナムでは違反発覚から6ヶ月(複雑案件は12ヶ月)で時効が成立する。

セクハラ防止規定の義務化:日本でも2020年以降セクハラ防止の措置義務はあるが、就業規則への具体的記載は義務ではない。ベトナムでは就業規則の必須記載事項として法定されている。

ここが変わった(2025〜2026年)

改正労働組合法(2025年7月1日施行)

最大の変化は外国人労働者の組合加入の容認。日本人駐在員も12ヶ月以上の契約であれば、希望すれば組合に加入できるようになった。

また、組合費の使途に関する透明性の向上が図られ、企業が納付した2%の使途について説明を求める権利が強化された。

従業員代表組織の今後

CPTPP・EVFTAの約束に基づき、いずれVGCL以外の従業員代表組織が認められる見込みだが、施行時期は未定。外資企業にとっては、「従業員が独自の交渉団体を結成する」可能性を頭に入れておく必要がある。

まとめ:やっておくべきこと

  1. 設立と同時に就業規則を作成する。ベトナム法に精通した弁護士に依頼し、必須記載事項(セクハラ防止含む)をすべて網羅した就業規則をベトナム語で作成する

  2. 就業規則をDOLISAに登録する。登録しなければ懲戒処分が法的に無効になるため、開業後速やかに登録手続きを完了させる

  3. 従業員代表との意見聴取を記録に残す。労働組合がない場合は従業員代表を選出し、意見聴取の議事録を作成。これがDOLISA登録の添付書類になる

  4. 労働組合費(給与総額の2%)を予算に組み込む。組合があってもなくても支払い義務があるとされる。会計処理上は「福利厚生費」として計上

  5. 懲戒処分の手続きマニュアルを整備する。時効(6ヶ月)、聴聞手続き、二重処分禁止など、日本とは異なるルールを全管理者に周知する

  6. 減給処分は懲戒の選択肢から外す。日本の感覚で減給を科しても、労働法が認める処分に当たらない。代替手段は戒告か昇給延期

  7. セクハラ防止研修を実施する。就業規則に規定するだけでなく、全従業員への周知と定期的な研修が求められる

  8. 就業規則は改正があれば都度更新し、再登録する。法改正や組織変更に合わせて内容を見直し、DOLISAに再登録する

  9. 労働組合の設立要請があった場合に慌てない。従業員から組合設立の要求があれば拒否できない。対応方針を事前に検討しておく

  10. 日本語版の就業規則は「参考資料」であることを明記する。法的正本はベトナム語版であり、日本語版との齟齬がある場合はベトナム語版が優先される旨を明示する


参照時点と主要根拠法令

本記事は2026年3月時点の調査に基づいています。法令は改正されるため、実務の判断は現行の一次資料で確認してください。

主要根拠法令: Labor Code 2019(労働法。第118条=就業規則の作成義務と必須記載事項、第124条=懲戒処分の種類、第125条=解雇事由)/Decree 145/2020/ND-CP(第84〜85条=セクシャルハラスメント防止規定)/労働組合法(2025年7月1日施行の改正を含む)/日本の労働基準法第91条(減給の制限)