はじめに

ベトナムで工場を建てる。人を雇って機械を動かす。そのとき、日本人が最も見落としがちなのが労働安全衛生(OSH) の法的義務だ。

「安全管理は当然やっている。日本でもやっていることだ」——その認識は正しい。しかしベトナムのOSH制度には、日本とは根本的に異なるルールがある。

最大の違いは、労働災害補償が「無過失責任」 であること。労働者が安全手順を無視して事故を起こしたとしても、企業は法定の補償を支払わなければならない。「従業員の自己責任」は通用しない。労働者が故意に自傷した場合、または飲酒・薬物の影響下にあった場合だけが例外だ。

さらに、OSH関連の義務を怠った場合の罰則は重い。訓練未実施、健康診断未実施、環境測定未実施——いずれもVND数百万〜数千万の罰金対象であり、法人の場合は罰金額が2倍になる。重大な違反では操業停止命令が下される可能性もある。

この記事では、ベトナムの労働安全衛生法制、工場運営に必要な安全管理体制、労働災害時の対応を解説する。

第1章 ベトナムのOSH法制

独立した専門法

ベトナムのOSH制度は、2015年労働安全衛生法(Law No.84/2015/QH13) を基本法としている。日本の労働安全衛生法と同様、労働者の安全と健康を保護するための包括的な法律だ。

この法律は2016年7月に施行され、以下の施行令で具体化されている。

  • Decree 39/2016/ND-CP:OSH法の施行細則
  • Decree 44/2016/ND-CPDecree 140/2018/ND-CP により改正):労働安全衛生の訓練活動と労働環境測定の細則。後述する訓練時間数の根拠がこの政令にある
  • Decree 88/2020/ND-CP:労働災害・職業病の強制保険

日本との構造的な違い

日本の安衛法は「事業者の義務」を中心に組み立てられているが、ベトナムのOSH法は「労働者の権利」の側面がより強い。労働者には危険な作業を拒否する権利があり、OSH訓練を受ける権利がある。そして労働災害が発生した場合の補償は、企業の過失を問わない。

第2章 企業の義務 — 工場を動かす前にやるべきこと

OSH担当者の配置

企業規模に応じて、OSH担当者を配置する義務がある。

小規模(50名未満)の場合は兼任のOSH担当者で足りるが、50名以上の製造業では専任のOSH担当者を少なくとも1名配置しなければならない。300名以上の製造業ではOSH委員会の設置も義務だ。

安全衛生訓練

すべての従業員に対し、安全衛生訓練を実施する義務がある。時間数は感覚で決めるものではなく、Decree 44/2016/ND-CP 第19条が対象者の区分ごとに最低時間を定めている。

区分 対象 初回訓練の最低時間
グループ1 使用者・管理職 16時間
グループ2 OSH専任担当者 48時間
グループ3 厳格な安全衛生要件のある作業に従事する者 24時間
グループ4 一般労働者 16時間
グループ5 労働衛生の医療従事者 56時間
グループ6 安全衛生員ネットワークの参加者 既受講分に加え4時間

管理者・経営者が16時間なのはこのグループ1にあたるからで、日本からの駐在員(工場長やGM)もここに入る。訓練の内容はOSH法規、リスクアセスメント、事故防止など。

一般労働者(グループ4)も最低16時間。採用時に実施する。

見落としやすいのがグループ3の24時間だ。クレーン操作、溶接、電気作業のような「厳格な安全衛生要件のある作業」に従事する労働者はこの区分に入り、16時間では足りない。製造現場では該当者が最も多くなりやすい区分なので、訓練計画を16時間一律で組むと後から積み直しになる。

更新訓練は同政令第21条1項により、証明書・安全カードの有効日から2年に1回以上、初回訓練時間の50%以上の時間で行う。管理職なら8時間以上ということになる。実務では年1回の定期訓練を回している企業も多いが、それは自社の運用であって、法定の下限は2年に1回だ。

職場環境測定

年1回以上、作業環境中の有害因子を測定する義務がある。測定項目は以下の通り。

  • 粉じん濃度
  • 騒音レベル
  • 振動
  • 有害ガス・有機溶剤濃度
  • 温度・湿度
  • 照度
  • 放射線(該当する場合)

測定は認定を受けた専門機関に委託する必要がある。結果は記録・保管し、基準値を超えている場合は改善措置を講じなければならない。

定期健康診断

全従業員に対し年1回の定期健康診断を実施する義務がある。有害環境下で働く労働者は年2回

日本でも定期健診は義務だが、ベトナムでは有害作業者の年2回という頻度が特徴的だ。製造業では有害環境に該当する作業が多いため、健診コストが膨らみやすい。

PPE(個人防護具)の支給

有害環境下の労働者には、企業が無償で PPEを支給する義務がある。安全靴、保護メガネ、耳栓、防じんマスク、作業手袋、ヘルメット等。

PPEの費用を従業員に負担させることはできない。また、「PPEを支給したから安全対策は十分」とはならない。PPEは最後の防御手段であり、作業環境そのものの改善が優先される。

機械設備の定期検査

厳格安全要件の対象設備(クレーン、ボイラー、圧力容器、リフト等)は、認定を受けた検査機関による定期的な技術安全検査が義務付けられている。検査に合格しなければ使用できない。

第3章 労働災害への対応

即時対応

労働災害が発生したら、まずは被災者の救護と応急処置。次に、原因調査のために事故現場を保全する。重大事故(重傷・死亡)の場合は公安機関にも通報する。

報告義務

報告のルールは事故の重大性によって異なる。

軽傷事故は企業内で記録し、半期・年間の報告でDOLISA(Department of Labour, Invalids and Social Affairs=省・市レベルの労働傷病兵社会局)に提出する。なお2025年2月の省庁再編で地方の労働行政は各省の内務局(Sở Nội vụ) に移っており、現在の提出先はそちらになる。実務の会話では旧称のDOLISAが今も使われるため、この記事でも以下DOLISAと表記する。

重傷・死亡事故は、発生後24時間以内にDOLISAおよび公安機関に報告しなければならない。

2名以上が死亡する重大事故は、中央の労働行政当局に直接報告する。従来のMOLISA(労働傷病兵社会省)にあたり、省庁再編後は内務省(Bộ Nội vụ) がその機能を引き継いでいる。

事故調査

軽傷事故は企業自身が調査を行う。重傷事故はDOLISAが調査チームを編成する。死亡事故は省レベルの人民委員会が主導して調査を行う。

補償の仕組み

ここがベトナムの制度の核心だ。労働災害が発生した場合の補償義務は以下の通り。

治療費:社会保険でカバーされない部分を企業が全額負担

休業中の給与:治療・療養期間中の給与全額を継続して支払う。

障害補償:労働能力の低下率に応じた一時金。低下率5〜10%の場合は最低1.5ヶ月分の給与。10%を超える場合は、低下率1%ごとに0.4ヶ月分が追加される。

死亡の場合:最低30ヶ月分の給与

無過失責任の原則

最も重要なポイントを繰り返す。企業の過失がなくても、上記の補償義務は発生する

労働者が安全手順を守らずに事故を起こした場合でも、企業は補償しなければならない。例外は、労働者が故意に自傷した場合、または飲酒・薬物の影響下にあった場合のみ。

日本でも労災保険は使用者の無過失責任に基づくが、保険からの給付が中心で、企業が直接支払う金額は限定的。ベトナムでは企業が直接的に補償金を支払う義務があり、そのインパクトは大きい。

第4章 罰則 — 「やっていない」だけで罰金

主な違反と罰金額

OSH分野の行政罰の根拠は Decree 12/2022/ND-CP の第3章(第20条〜第27条)だ。OSH法84/2015/QH13やDecree 39/2016/ND-CPには金額そのものは書かれていない。罰金を調べるときはこの政令を開くことになる。

金額を読むときに、まず頭に入れておきたい原則がひとつある。同政令第6条1項により、条文に書かれている金額は「個人」に対するもので、企業に対しては2倍になる。同条3項bは、ベトナム法に基づいて設立された企業も、外国企業のベトナム支店・駐在員事務所も「組織」に含めると明示している。日系現地法人はすべて2倍側だと考えてよい。

違反内容(根拠条文) 罰金額(個人。企業は2倍)
OSH訓練の未実施(第25条1項) 対象者1〜10人で VND 500万〜1,000万、11〜50人で1,000万〜2,000万、51〜100人で2,000万〜3,000万、101〜300人で3,000万〜4,000万、301人以上で4,000万〜5,000万
定期健康診断・職業病健診の未実施(第22条2項) 労働者1人あたり VND 100万〜300万(総額上限 VND 7,500万)
職場環境測定の未実施(第27条3項) VND 2,000万〜4,000万
PPEの未支給・不足・品質不足(第22条8項) 対象者1〜10人で VND 300万〜600万から、人数に比例して増える
OSH担当部署・担当者、産業保健要員、救急要員の未配置(第21条2項b) VND 500万〜1,000万
労働災害の未調査・未申告・遅延申告・虚偽申告(第21条3項đ) VND 2,000万〜2,500万
定期報告の不備(第20条3項) VND 500万〜1,000万

この表で日本人が読み違えやすいのは、罰金が定額ではなく人数に比例する設計になっている点だ。訓練未実施もPPE未支給も、対象者が何人かで金額帯が階段状に変わる。健康診断にいたっては1人あたりの課金で、上限のVND 7,500万まで積み上がる。従業員300人の工場で健診を丸ごと飛ばせば、個人額でも相当な水準になり、企業はその2倍を見ることになる。「一律で数百万ドン」という感覚で見積もると桁を間違える。

申告と報告が別建てなのも押さえておきたい。事故が起きたときの当局への申告を怠ったり遅らせたり虚偽の内容を出したりすれば第21条3項đ、日常の定期報告の不備は第20条3項で、金額帯が4倍ほど違う。

そのほか、第21条3項には機械・設備の定期点検や保守を怠る、安全装置を設けない、緊急対応計画を作らないといった行為が VND 2,000万〜2,500万で並んでいる。重筋・有害・危険業務の労働条件評価をしていない場合は第21条5項で VND 5,000万〜7,000万と、さらに重い。

罰金以外の措置もある。是正措置として労働者の復職や未払い分の支払いが命じられることがあり、重大なOSH違反では一定期間の操業停止処分が併科されることがあるとされる。新設工場にとって操業停止は致命的だ。

なお、この政令の役割は、2026年9月10日を境に Decree 283/2026/ND-CP へ移る。新政令も主罰は警告または罰金で、付加制裁として違反物件の没収、実務資格証の期限付き停止、期限付き操業停止、外国人労働者の国外退去が置かれているとされる。ただし条文そのものは手元で確認できていないため、この章の金額は 12/2022 のものとして読んでほしい。実務で金額を使うときは、その事案にどちらの政令が適用されるかを先に確かめること。

第5章 製造業特有のポイント

機械安全

製造業で特に注意すべきは機械設備の安全管理だ。プレス機、溶接設備、搬送装置、クレーンなど、厳格安全要件の対象設備は認定検査機関による定期的な技術安全検査が義務付けられている。

検査なしの設備を使用した場合は罰金対象であり、事故が発生した場合の企業責任はさらに重くなる。

化学物質管理

塗装工程での有機溶剤、溶接ヒューム、金属粉じんなど、製造業では化学物質の管理が不可欠。化学物質の安全データシート(SDS)の保管、取り扱い手順の策定、労働者への教育が義務付けられている。

騒音・粉じん対策

金属加工では騒音と粉じんが主要な有害因子。基準値を超えている場合は、換気設備の設置、防音壁の設置、作業時間の制限などの対策が必要。

日本との違い — 「日本の常識が通じない」ポイント

労災補償の「無過失責任」が企業の直接負担:日本では労災保険からの給付が主であり、企業が直接支払う金額は限定的。ベトナムでは企業が直接的に治療費、給与、障害補償を支払う義務があり、保険からの給付はそれに追加されるもの。

健康診断が年2回:日本では一般定期健診は年1回。ベトナムでは有害環境下の労働者は年2回が義務で、製造業では対象者が多い。

訓練の法定時間数:日本の安全衛生教育は「雇入れ時教育」「作業内容変更時教育」として義務付けられているが、時間数の規定は柔軟。ベトナムでは対象者の区分ごとに16時間から56時間まで、政令で時間数そのものが決められている。

職場環境測定の義務化:日本では作業環境測定士による測定が義務付けられる場所が法定されているが、ベトナムではすべての製造現場で年1回以上の測定が義務。

ここが変わった(2025〜2026年)

社会保険法改正(2025年7月施行)

労災・職業病保険(使用者負担0.5%)は社会保険の一部として運用されており、日本人駐在員が工場内で事故に遭った場合もベトナムの労災保険の対象になる。

ここで、日本語の解説記事でよく見かける説明を一つ訂正しておきたい。「2025年7月の改正で外国人労働者が労災保険の対象に加わった」という書き方があるが、事実は逆だ。外国人労働者がベトナムで最初に加入させられたのが、まさにこの労災・職業病基金(0.5%)と傷病・出産基金(3%)で、2018年12月1日から適用されている。退職・遺族基金が上乗せされたのが2022年1月1日。2025年7月に新しく対象になったわけではない。

では2025年7月に何が起きたのか。社会保険法(法律第41/2024/QH15号)の施行にあたり、労働安全衛生法84/2015/QH13の側の条文(第42条7項、第43条1項、第44条2項b)が改正され、労災・職業病保険の対象者の定義が新社会保険法の条番号に合わせて整理された。動いたのは定義と条文の置き場所であって、対象者の範囲が外国人に広がったのではない。旧根拠だった Decree 143/2018/ND-CP は、Decree 158/2025/ND-CP により廃止されている。

外国人の加入義務そのものの判定基準は、社会保険法第2条2項により「ベトナムの使用者と12ヶ月以上の有期労働契約を結んでいるか」に一本化された。除外されるのは企業内転勤者、契約締結時にすでに定年年齢に達している者、条約に別段の定めがある場合の3つだ。

省庁再編(2025年2月に実施済み)

OSH関連の監督機関はすでに動いている。「変わるかもしれない」ではなく、2025年2月の省庁再編でMOLISA(労働傷病兵社会省)は内務省(Bộ Nội vụ)に統合され、地方の労働行政は各省の内務局(Sở Nội vụ) へ移った。外国人労働者に関する手続きの所管変更は Decree 128/2025/ND-CP で整理された。

実務への影響は、窓口の名前と提出先が変わることだ。事故報告や訓練・健診の記録提出をDOLISA宛てで運用してきた企業は、現行の受付部署を地元で確認しておきたい。現場では旧称のDOLISA・MOLISAが今も通用しており、業者や社内文書の表記は混在したままだ。

まとめ:やっておくべきこと

  1. 工場稼働前にOSH担当者を任命する。設立初期は兼任可だが、従業員50名以上の製造業では専任化が必要

  2. 管理者(駐在員含む)に16時間以上のOSH訓練を受講させる。認定機関のコースを利用する

  3. 全従業員に採用時OSH訓練を実施する。一般労働者は16時間以上、厳格な安全衛生要件のある作業に就く人は24時間以上。更新訓練は法定で2年に1回以上(初回時間の50%以上)だが、年1回で回す運用にしておくと余裕が持てる

  4. PPEを工場稼働前に調達し、全対象者に配布する。費用は企業負担。従業員への費用転嫁は不可

  5. 定期健康診断の年間契約を地元の病院と締結する。有害環境作業者は年2回の実施を計画

  6. 職場環境測定の委託先を確保する。認定機関に年1回以上の測定を委託。結果は記録・保管

  7. 厳格安全要件の対象設備のリストを確認し、認定検査機関の技術安全検査を受ける

  8. 労働災害緊急対応マニュアルを作成し、全従業員に周知する。24時間以内のDOLISA報告体制も整備

  9. 年間OSH計画を策定する。訓練、健診、環境測定、設備検査のスケジュールを一元管理

  10. 「労働者の過失でも企業が補償する」ことを全管理者が理解する。補償責任を減らす手立ては限られているので、安全教育と作業手順の徹底で事故そのものを減らすところに力を割きたい


参照時点と主要根拠法令

本記事は2026年3月時点の調査に基づいています。法令は改正されるため、実務の判断は現行の一次資料で確認してください。OSH訓練の時間数、罰金額、外国人労働者の労災保険の適用開始時期については2026年8月に一次資料で再確認しています。

主要根拠法令: 労働安全衛生法(法律第84/2015/QH13号)/Decree 39/2016/ND-CP/Decree 44/2016/ND-CP(Decree 140/2018/ND-CPにより改正。第19条=訓練時間、第21条=更新訓練)/Decree 88/2020/ND-CP/Decree 12/2022/ND-CP(第6条・第20条〜第27条=行政罰。2026年9月10日からDecree 283/2026/ND-CPが置き換える)/社会保険法(法律第41/2024/QH15号)/Decree 158/2025/ND-CP(Decree 143/2018/ND-CPを廃止)/Decree 128/2025/ND-CP(省庁再編に伴う外国人労働者手続の所管整理)