残業で回すか、人を入れるか
登場する人物・会社・工場・金額は、すべて架空の設例です。実在のものとは関係ありません。
① 前に読む(数字を動かす前・ケンの独白)
2026年10月・VSIP Bắc Ninh
製造課のリーダーが、また来た。
「来月も残業が続きそうです。1人、入れてもらえませんか」
先月、採用したばかりだ。提示は 15,000,000 だったが、会社が実際に払うのは 18,525,000 だと分かった。年にすると 222,300,000。あの数字を本社に説明したときの、管理部門の課長の顔をまだ覚えている。
もう1人。
残業で回せばいいのでは
とっさに思ったのは、それだった。
残業なら、必要な分だけ払えばいい。人を増やすと、仕事が少ない月も払い続けることになる。工場の受注は波がある。
ただ、そう言い切る材料がない。
ベトナムの残業には割増がつく。平日は1.5倍だと聞いた。休日はもっと高いらしい。1.5倍を払うくらいなら、1人増やした方が安いのではないか。
どちらなのかが、分からない。
先月の残業時間を出してもらった
マイに頼んで、製造課の先月の残業時間を出してもらった。
思っていたより多かった。
数字を見ながら、別のことも気になった。これ、いくらまで出していいものなのか。 日本には36協定というものがあって、上限が決まっていた。ベトナムにも何かあるはずだが、聞いたことがない。
リーダーは「回せます」と言う。回せるかどうかと、出していいかどうかは、別の話のような気がする。
説明するのは自分
本社との月次会議で、必ず聞かれる。
「人を増やす前に、残業で吸収できないんですか」
去年までのケンなら、その質問に「検討します」と答えて終わっていた。いまは、答えられないと格好がつかない立場にいる。
去年までと違うのは、もう1つある。先月、採用1人分のコストは自分で出した。 出し方は分かっている。
あとは、残業の方をどう置くかだけだ。
翌朝
「残業で回すのと、もう1人入れるのと、どちらが安いのかを出したいんです」
リンは、めずらしく即答した。
「出せます。ただ、順番を変えてください」
「順番」
「安いか高いかを先に計算すると、たぶん間違えます。 先に見るものがあります」
「何ですか」
「残業には、法律で上限があります。」
② 数字を動かす
右のさわれる表を使います。Excelと同じ作りで、青い文字のセルが書き換えられる欄です。書き換えると、つながっているセルが全部動きます。
セルをクリックしてください。 上の数式バーにそのセルの式が出て、参照元(そのセルが使うセル)が青、参照先(そのセルを使うセル)が茶に色づきます。その数字が何で、どこから来ているのかは、これで追えます。上のタブでシートを切り替えられます。
「演習:自分で埋める」に切り替えると計算セルが空欄になり、数字でも =C6-D6 のような数式でも入れて答え合わせができます。詰まったら「答えを見る」。
先に動かしてください。 下の③は、動かしたあとに読むものです。
③ 後に読む(動かしたあと・ケンとリンとマイの対話)
【場面】 翌朝の30分。ケンのノートパソコンに、リンとマイが集まっている。マイは残業時間の集計表を持っている。
残業には、社会保険が乗らない
ケン「残業の時給が 108,173 と出ました。通常が 72,115 なので、ちょうど1.5倍です」
リン「では、その 108,173 に会社の社会保険はいくら乗りますか」
ケン「……Excelは0と出しています。入力を間違えましたか」
リン「合っています。算定基礎は『恒常的・安定的に支払うと合意した額』と条文が決めています(社会保険法 41/2024 第31条1項b)。残業代は月ごとに変わるので、そこに当たりません」
ケン「つまり残業代には、会社の負担が乗らない」
リン「通常は乗りません。 ただし手当の作り方によっては入ることもあるので、うちの運用はマイさんと一度確認してください」
マイ「届出は、基本給と固定の手当で出しています。残業は入れていません」
【経理が細かい理由】
第2章で「手当の名称で線が引かれる」という話が出た。その線は、ここでも同じ場所にある。
「残業手当」という名前で毎月同じ額を払っていると、それは「恒常的・安定的」に見える。 名前が同じでも、実際の払い方で算定基礎に入るかどうかが変わりうる。
経理と総務が支給項目の設計にこだわるのは、ここで会社の負担が変わるため。
時間単価では、増員の方が安い
リン「では、増員1時間はいくらでしたか」
ケン「89,063 です。……残業より安い」
リン「何%安いですか」
ケン「18%近い。意外でした。1.5倍を払う残業の方が高くつくと思っていたので、逆かと」
リン「残業は1.5倍ですが社会保険が乗りません。増員は1倍ですが23.5%が乗ります。1.5 と 1.235 を比べているようなものです」
ケン「じゃあ、増員した方がいいということですか」
リン「まだです。 その計算は『その人を208時間ぶん使い切る』前提です」
分岐点
ケン「分岐点が 171.3時間 と出ました。月に171時間ぶんの追加の仕事があるなら、増員の方が安い」
リン「そのとおりです。では、その171時間を残業で出そうとしたら、どうなりますか」
ケン「……あ」
リン「どうしました」
ケン「上限が月40時間でした(労働法 45/2019 第107条2項b)。171時間なんて、そもそも出せない」
リン「はい。分岐点は、上限の4.3倍のところにあります。 法律の外側です」
ケン「じゃあ、この分岐点の計算は意味がないということですか」
リン「意味はあります。時間単価で見るかぎり、『残業の方が安い場面は存在しない』ということが分かったので。 40時間以内なら残業の方が総額は小さいですが、それは40時間ぶんの仕事しか消化できていないからです」
【社長が見る数字】
| 見るもの | この設例での値 | なぜ見るか |
|---|---|---|
| 1人あたりの実コスト(月) | 18,525,000(月給の1.235倍) | 提示額ではなく、これが出ていく額 |
| 同(年) | 222,300,000 | 本社に説明するのはこの数字 |
| 残業1時間の会社コスト | 108,173 | 増員1時間(89,063)と並べて初めて意味が出る |
| 今年の残業の累計 | — | 枠のどこまで来たか。これが一番大事 |
| 枠が尽きるまでの月数 | — | 採用と教育が間に合うか |
「どちらが安いか」より、「枠のどこまで来ているか」を先に見る。
1年は、12か月ある
リン「最後にもう1つ。月40時間を、1年続けられますか」
ケン「40×12で……480時間。年の上限は」
マイ「200時間です。うちは電子部品なので300時間の枠が使えますが、それでも480は超えます」
リン「1つ足しておきます。300時間の枠は、業種が当てはまれば自動で使えるわけではありません。 使うときは省人民委員会の労働専門機関へ書面で通知することになっています(第107条4項)。マイさん、うちは出していますか」
マイ「出しています。毎年」
リン「そのとおりです(労働法 第107条2項c、3項a)。月40時間は単月の上限であって、1年通して使える数字ではありません」
ケン「年間で均すと……200を12で割ると、16.7時間」
リン「年間で均せば、それが実質の上限です。 うちの300時間枠でも、月25時間。月の法定上限が40時間なのは変わりませんが、それを12か月続けられはしません」
ケン「先月の残業は、それを超えています」
リン「はい。だからこの相談は『どちらが安いか』の話ではなかったんです。枠がいつ尽きるかの話でした」
【日本との比較】
日本にも上限規制があると聞いている(36協定。原則は月45時間・年360時間と言われる。日本側の条文はこの教材では確認していません)。仕組みがあること自体は同じ。 違うのは割増率と年枠の水準で、ベトナムは割増が高く(平日150%)、年枠が低い(原則200時間)。 「日本と同じ感覚で残業に頼る」と、先に年枠が尽きる。
次
ケン「本社には、どう言えばいいでしょう」
リン「『残業では吸収できません』の理由を、2つ持っていってください。 1つは金額、もう1つは枠です」
ケン「枠の方が強い気がします」
リン「私もそう思います。金額は交渉できますが、上限は交渉できません」
④ 試してみたことの答え合わせ
| 問い | 答えのある場所 |
|---|---|
| 必要な時間(B6)を20→40→60と動かすと⑩の判定はどうなるか | 40を超えたところで「上限を超えている(残業では回せない)」に変わる(第107条2項b) |
| 分岐点は月の上限の何倍か | 「分岐点」(171.3時間 ÷ 40時間 = 4.3倍) |
| 所定(B5)を208→173(週40時間運用)に変えると①と⑤はどう動くか | 通常時給(B8)が 72,115→86,705 に上がり、増員1時間(C12)も 89,063→107,081 に上がる。分岐点は縮むが、上限40時間は変わらない |
| 自社は例外業種か | 「年間の枠」シート。第107条3項aに電気・電子製品の製造・輸出加工が明記されている |
⑤ 力だめし(9問)
この回で確かめたことを、数字と条文の両方から問います。表を一度動かしてから解いてください。間違えた問題は「弱点」として記録され、あとから「弱点だけ解く」で戻れます。
⑥ この回の用語
| 略語/越語 | 正式・各語の意味 | 日本語 |
|---|---|---|
| Làm thêm giờ | làm thêm=追加で働く/giờ=時間 | 時間外労働(残業) |
| Giờ làm việc bình thường | bình thường=通常の | 所定労働時間(1日8時間・週48時間以内) |
| Ban đêm | ban=時間帯/đêm=夜 | 深夜(22時〜翌6時) |
| Ngày nghỉ hằng tuần | nghỉ=休む/hằng tuần=毎週 | 週休日(割増は最低200%) |
| Ngày nghỉ lễ, tết | lễ=祝日/tết=旧正月 | 祝日・旧正月(割増は最低300%) |
| Thường xuyên, ổn định | thường xuyên=恒常的/ổn định=安定的 | 恒常的・安定的(算定基礎に入るかの分かれ目) |
参照時点と主要根拠法令
- 参照時点: 2026年8月
- 主要な根拠: 労働法 45/2019/QH14 第98条1項(割増は平日で最低150%)/同 第105条1項(所定は1日8時間・週48時間)/同 第106条(深夜は22時〜翌6時)/同 第107条2項b・2項c・3項a・4項(時間外の月上限・年上限・例外業種・書面通知)/同 第112条(祝日・旧正月)/社会保険法 41/2024/QH15 第31条1項b(算定基礎の定義)/労働組合法 50/2024/QH15 第29条1項b(労働組合費の計算相手)
- 会社負担 23.5% の内訳の根拠は、Day3の末尾に挙げています
法令はこの時点のものです。実際の判断にあたっては、最新の条文と、必要に応じて専門家の確認をお願いします。
法令はこの回の末尾に挙げた時点のものです。実際の判断にあたっては、最新の条文と、必要に応じて専門家の確認をお願いします。