社会保険はどこまで引かれるのか
登場する人物・会社・工場・金額は、すべて架空の設例です。実在のものとは関係ありません。
① 前に読む(数字を動かす前・ケンの独白)
2026年8月・VSIP Bắc Ninh
毎朝30分の勉強が始まって、2週間になる。
先月、自分の給与明細から手取りを組み立ててみて、少しだけ地面ができた気がした。総支給から社保を引いて、控除を引いて、残った額に税率をかける。順番が見えると、数字が数字に見えてくる。
ただし、社保のところだけは飛ばした。明細に書いてある額を、そのまま写しただけだ。
気づいたこと
先月と、その前の月の明細を並べてみた。
7月は残業が多かったので、総支給が6月より増えている。TNCN も増えている。そこまではいい。
社会保険の欄が、1VNDも動いていない。
総支給が増えたのに、引かれる保険料が同じ。計算間違いではないのか。
聞いてみた
2枚の明細を並べて、リンに見せた。ここだけ動いていないんですが、と。
「上限があるんです」
上限がある。それは分かった。では、その上限はいくらなのか。
「50,600,000です。今年の7月からこの額です」
即答だった。
給与規程には書いていない数字を、経理課長は即答する。経理にとっては常識で、こちらには見えていなかった数字、ということらしい。
判を押す側として
これは自分ひとりの問題ではない。
来月、製造課のリーダーから相談のあったオペレーターの給与を上げることになっている。20%上げると、会社の負担はいくら増えるのか。本人の手取りはいくら増えるのか。
上限の数字は聞けた。ただ、数字を1つ聞いただけでは、この計算はまだできない。
先月、100人分の台帳に判を押したときと、同じ気持ちだった。
翌朝
「昨日の 50,600,000、メモしました。これを覚えておけばいいんですね」
「覚えなくていいです」
「え」
「その数字は政令で決まっていて、政令は変わります。私が言った数字をケンさんが覚えるだけだと、来年またゼロからになります。 出し方を持っている方が長く使えます」
「出し方」
「ご自分の明細から、逆に計算するんです。 法律にはっきり書いてある率があります。労働者の負担は8%。BHXHの控除額を8%で割れば、会社がケンさんの保険料の計算に実際に使っている額が出ます」
「それは、昨日の 50,600,000 になるのでは」
「なるはずです。 ならなかったら——」
リンが少しだけ間を置いた。
「会社の届出が、実態と合っていない可能性が出てきます。 法律の上限は法律の話です。会社が実際にどの額で計算しているかは、明細から逆算すれば見えます。突き合わせて、はじめて『合っている』と言えます」
② 数字を動かす
右のさわれる表を使います。Excelと同じ作りで、青い文字のセルが書き換えられる欄です。書き換えると、つながっているセルが全部動きます。
セルをクリックしてください。 上の数式バーにそのセルの式が出て、参照元(そのセルが使うセル)が青、参照先(そのセルを使うセル)が茶に色づきます。その数字が何で、どこから来ているのかは、これで追えます。上のタブでシートを切り替えられます。
「演習:自分で埋める」に切り替えると計算セルが空欄になり、数字でも =C6-D6 のような数式でも入れて答え合わせができます。詰まったら「答えを見る」。
先に動かしてください。 下の③は、動かしたあとに読むものです。
③ 後に読む(動かしたあと・ケンとリンの対話)
【場面】 翌朝の30分。ケンがノートパソコンを開く。
逆算してみた
ケン「BHXHの控除額を8%で割ったら、50,600,000 と出ました。総支給は 80,000,000 なので……」
リン「その差は、何を意味していると思いますか」
ケン「29,400,000 の分には、保険料がかかっていない」
リン「そのとおりです。会社がケンさんの保険料を計算するときに使っている額——算定基礎といいます——は 50,600,000 で止まっています。総支給ではありません」
ケン「50,600,000 を 20 で割ると、2,530,000 になりました」
リン「それが参照額です。法律は『最低が参照額、最高が参照額の20倍』と定めていて(社会保険法41/2024 第31条1項đ)、参照額そのものは法律の本体には書かれていません。いまは 2,530,000 です」
ケン「その 2,530,000 は、どこから来るんですか」
リン「2段になっています。基礎給(lương cơ sở)が政令で 2,530,000 と定められていて、基礎給が廃止されるまでは参照額=基礎給、と社会保険法の経過措置が言っています。だから政令が直接『参照額』を決めているわけではありません。基礎給が動けば、上限も動きます」
突き合わせ — K列は何を言っているのか
ケン「K6のセルは『上限に当たっている』と出ました。逆算した 50,600,000 が、J列の法定上限とちょうど一致したからですよね」
リン「はい。控除の計算に使われている額が、法定上限とぴったり一致していることまでは確かめられました。 昨日の話の続きです。逆算した額の突き合わせ相手は、2つあります」
ケン「『届出額そのもの』ではないんですね」
リン「はい。明細から見えるのは、給与の控除を計算するのに使われた額です。社会保険機関に届け出ている額そのものは、届出書で見ます。ふつうは一致しますが、別のものです」
| 逆算した算定基礎が | 意味 |
|---|---|
| 法定上限(50,600,000)と一致 | 正常。給与が上限を超えているので、頭打ちになっている |
| 契約月給+固定手当と一致 | 正常。上限未満の人はこの形になる |
| どちらとも合わない | 届出が実態と違う可能性。 総務・経理に確認する |
ケン「どちらとも合わない、というのは実際にあるんですか」
リン「あります。手当の扱いを間違えているか、昇給に届出の更新が追いついていないか。悪意がなくても起きます。 だからこの逆算は、上限を覚えるための計算ではなくて、確かめるための計算なんです」
もう1つの算定基礎 — L列とN列
ケン「N6が『違う』と出ました。BHTNの控除額を1%で割ったら 80,000,000。総支給がそのまま出てきました」
リン「元になる賃金は同じなんです。ケンさんの契約給与の 80,000,000。ただ、上限だけが別です。BHXHとBHYTは参照額の20倍で 50,600,000。BHTNは地域別最低賃金の20倍(雇用法74/2025 第34条2項)で、第I地区ならいまは 106,200,000 です」
ケン「80,000,000 はBHTNの上限より下だから、切られずにそのまま残る」
リン「はい。同じ 80,000,000 が、BHXHでは 50,600,000 に切られ、BHTNでは切られない。 ケンさんは、上限に当たっている保険と当たっていない保険を、同時に持っています」
誰がこの数字を持っているのか
ケン「この 50,600,000 という額は、誰かが決めて届け出ているわけですよね」
リン「マイさんです。社会保険の届出は総務人事の仕事なので、マイさんはこの額を毎月見ています」
ケン「……最初からマイさんに聞けばよかったんじゃないですか」
リン「聞いてください。ただ、マイさんが持っているのは『届け出ている額』です。『なぜその額で止まるのか』は、いまケンさんがご自分で出したところです」
ケン「同じ数字を、別々に持っている」
リン「はい。両方あって、はじめて話が通じます」
なぜ動かなかったのか
リン「では、先月と今月で社会保険が1VNDも動かなかった理由を、いま説明できますか」
ケン「……総支給が増えても、算定基礎は 50,600,000 で止まっているから。残業代が増えた分は、上限の外側にある」
リン「はい。上限に当たっている人は、給与が増えても社会保険はほとんど増えません。BHXHとBHYTは動きません。動くのは、上限に当たっていないBHTNだけです」
【日本との比較】
日本にも標準報酬月額の上限があるので、仕組み自体は珍しくない。 違うのは、上限が1つではないこと。日本は健康保険と厚生年金で等級表が違うが、いずれも報酬月額が基準になる。 ベトナムはBHXH・BHYTが参照額を基準にし、BHTNだけ地域別最低賃金を基準にする。 基準そのものが別なので、同じ人でも算定基礎が2つ出てくる。
上がった分は、どこへ行くのか
リン「表の下の『総支給を上げたら何が増えるか』で、総支給を10%上げてみましたね。何が増えましたか」
ケン「総支給が 8,000,000 増えて、社会保険は 80,000 だけ増えました。税金は 1,584,000 増えています」
リン「1,584,000 は 8,000,000 の何%ですか」
ケン「19.8%……ほぼ税率だ」
リン「そうです。社会保険は課税所得を計算するときに引く項目でした。引く額が増えないので、増えた総支給がまるごと課税所得になる。そこに税率がかかります」
ケン「上限に当たっている人は、給与を上げると税金の効きが強くなる、ということですか」
リン「そう考えて構いません。総支給・社会保険・税金・手取りは、それぞれ別の動き方をします」
【経理が細かい理由】
社会保険の算定基礎は、条文上「月給、職務手当、および毎期あたりに恒常的・安定的に支払うと合意したその他の補足額」を含むとされている(社会保険法 41/2024 第31条1項b)。
つまり「基本給か、手当か、一時金か」で算定基礎に入るかどうかが変わる。 経理が手当の名称や支給根拠にこだわるのは、性格ではなく、ここで線が引かれるため。 突き合わせの相手を「契約月給+固定手当」としたのも、この条文が理由。基本給だけを見比べると合わない。
【社長が見る数字】
| 見るもの | なぜ見るか |
|---|---|
| その人が上限に当たっているか | 当たっていれば、給与を上げても社会保険はほとんど増えない |
| 算定基礎(逆算した額) | 会社が実際に保険料の計算に使っている額。総支給ではない |
| 逆算した額と、上限・契約給与の突き合わせ | どちらとも合わなければ、届出が実態と違う可能性がある |
| 上限に当たっている人の昇給 | 社保がほぼ増えないぶん、増えた総支給がほぼまるごと課税所得になる |
同じ会社の中に、上限の内側と外側の人が並んでいる。 どちらなのかで、昇給1つの意味が変わる。
次
ケン「オペレーターの給与を20%上げる話ですが、これで会社の負担も分かりますか」
リン「まだです。いまやったのはケンさんが払う側の話。会社が払う側は、率も違えば、明細に出てこない負担もあります。次はそこを見ましょう」
④ 試してみたことの答え合わせ
| 問い | 答えのある場所 |
|---|---|
| 社会保険はいくら増えたか。なぜそうなるのか | 「なぜ動かなかったのか」と「もう1つの算定基礎」(BHXH・BHYTは上限で動かず、BHTNだけ 80,000 増える) |
| 増えた総支給のうち何%が税金になったか | 「上がった分は、どこへ行くのか」(19.8%。BHTNがわずかに増えるので、ちょうど20%にはならない) |
| BHXH控除額(D6)を半分にするとI6とK6はどう変わるか | I6が半分になり、K6は「上限未満(契約月給+固定手当と合うか確認)」に変わる。契約給与とも合わなければ届出が実態と違う可能性 |
| 総支給(C6)をI6より低くしてもK6が変わらないのはなぜか。どこで気づくか | K6が見ているのは法定上限だけだから。気づけるのはI6と契約給与の突き合わせ。上限との比較だけでは届出の誤りは見えない |
⑤ 力だめし(9問)
この回で確かめたことを、数字と条文の両方から問います。表を一度動かしてから解いてください。間違えた問題は「弱点」として記録され、あとから「弱点だけ解く」で戻れます。
⑥ この回の用語
| 略語/越語 | 正式・各語の意味 | 日本語 |
|---|---|---|
| BHXH | Bảo hiểm xã hội(bảo hiểm=保険/xã hội=社会) | 社会保険 |
| BHYT | Bảo hiểm y tế(bảo hiểm=保険/y tế=医療) | 健康保険 |
| BHTN | Bảo hiểm thất nghiệp(bảo hiểm=保険/thất nghiệp=失業) | 失業保険 |
| Mức tham chiếu | mức=水準/tham chiếu=参照 | 参照額(上限の基準になる額) |
| Tiền lương làm căn cứ đóng | căn cứ=根拠/đóng=納める | 算定基礎賃金 |
| Mức lương tối thiểu vùng | lương tối thiểu=最低賃金/vùng=地域 | 地域別最低賃金(BHTNの上限の基準) |
| TNLĐ-BNN | Tai nạn lao động - Bệnh nghề nghiệp(tai nạn=事故/bệnh=病) | 労災・職業病保険(会社のみ負担) |
参照時点と主要根拠法令
- 参照時点: 2026年8月
- 主要な根拠: 社会保険法 41/2024/QH15 第31条1項b・1項đ(算定基礎と上限)/同 第33条1項a(本人負担8%)/同 第141条13項(参照額=基礎給の経過措置)/雇用法 74/2025/QH15 第33条1項a・第34条2項(BHTNの率と上限)/健康保険法 25/2008/QH12 第13条1項a(労使2対1)/政令 161/2026/NĐ-CP(基礎給 2,530,000)/政令 293/2025/NĐ-CP(第I地区の最低賃金 5,310,000)
- 確認が取れていないもの: 政令 188/2025/NĐ-CP(BHYTの実効率4.5%)。法律で確認できるのは「上限6%・労使2対1」までです
法令はこの時点のものです。実際の判断にあたっては、最新の条文と、必要に応じて専門家の確認をお願いします。
法令はこの回の末尾に挙げた時点のものです。実際の判断にあたっては、最新の条文と、必要に応じて専門家の確認をお願いします。